教会カルト化の訳まとめ①

教会をカルト化させた事例は様々あるようですが

その根本にあたる初期のがん細胞の様な存在は

その教会がつくった、口伝律法であると

わたしは考えます。

例えば、東京キリストの教会では

マタイ6:33 神の国と神の義をまず第一に求めなさい

という聖句の”神の国”を”教会”と解釈しました

その為、教会を優先しないことは

神を優先しないことになりました

そして、教会は教会の行事すべてになり

すべての礼拝に参加すること

すべての集まりに参加すること

といったように口伝律法が生まれていきます

牧師はフルタイムスタッフなのでこのプレッシャーは

少ないわけですが

社会人の信徒は仕事をしながらなので大変です

あるとき、日曜日の礼拝の日に仕事がはいりそうになった時

その時には、仕事を入れるのか、強引に休んで礼拝に行くのか

決断しなければいけなくなります

信徒は自分で忖度し、礼拝を休むことは神をないがしろにすることだと

決断し、会社を強引に休むことを選ぶわけです

牧師は”すすめ”のつもりかもしれませんが

信徒にとっては決断を迫られる”口伝律法”なのです

(マタイ23:4の自分で負わないくびきを他人に負わせることになっています)

このような事例が素晴らしい信仰だとして、分かち合い会で持ち上げられると

他の信徒もそれがあるべき信仰だと思う訳です

更に忖度し、仕事を選ぶときは教会のスケジュールに

絶対従えるべき就職活動をしなければならいという

口伝律法がさらに生まれます

更に忖度し、仕事に忙しすぎる自分はキリストの弟子ではないと確信し

自発的に退職してしまいます

こうして真面目な信徒ほど、転職を繰り返していき

貯蓄ができず、時には健康保険や年金にまで支障をきたしてしまい

社会的破滅に向かってしまいます

脱カルト信者のカウンセラーの先生はカウンセリングを行う際は

ほとんどが無料で行うそうです

なぜなら、多くの脱カルト信者の方々(私が聞いたのはおもにエホバの証人)は

貯蓄が無く、アルバイト生活者が多いからだそうです

このように、口伝律法は悪影響が2倍になりながら

どんどん口伝律法は増え続けてカルト化へと導くことになります

しかし、マタイ6:33は聖書の言葉だから

人生を苦しめるのはおかしいとおもうわけですが

それでは、なぜこうなるのか聖句にさかのぼり

正しい解釈をさぐると

このマタイ6:33が語れらた文脈は

エス様がモーセの律法をユダヤ人に対して正しく解説しているところであること

から、第一義的にはモーセの律法下におかれたユダヤ人に対して語れた

メッセージであって、それを理解した上で神の国を解釈しなくてはなりません

つまり、使途の2章ペンテコステの教会誕生以前のメッセージなので

マタイ6:33の神の国を教会のスケジュールと置き換えるのは解釈に問題があります

更に、礼拝は日曜日としていて日曜日にコミットしていたわけですが

礼拝は日曜日にしなければいけないという聖書の教えはありません

定期的に集まりなさいというだけのもので、何曜日でも大丈夫です

つまり、熱心な信仰とおもって

転職を繰り返し、苦労していても

実のところは、正しい聖書の解釈から出たもではなく

信徒を教会に縛る為に、指導者が拡大解釈して

つくった人間的な口伝律法であったという訳です

カルト化した教会では

自分で聖書を解釈する力や意志が無いため

霊的盲人にたとえられています(マタイ23章)

 

 

 

 

 

 

教会カルト化の訳④

前回は異端的教えから律法主義に陥ってしまい肉のわざが活性化し罪が蔓延した

教会についてでしたが、

ローマ書の7章では、パウロは自分自身に同様の問題がおきていたことを

体験的に証ししています

7:8,11 罪は戒めによって機会をとらえ・・・

と、ガラテヤ5:13と同じくアフォルメイというギリシャ語の軍事用語を用いて

○○しなければならないという、律法主義に陥ったときに、肉のわざが活性化し、

7:8あらゆる欲望をひきおこした、7:9罪が生き、7:10死に導く、

7:11私を欺き、私を殺した と書いています

アダムから引き継いだ内在する古い罪の性質のことではなく、

攻撃を仕掛けてくるように肉的罪の侵略が激しくなるように思います

熱心なユダヤ教徒であった時なのか、回心後なのか

パウロのどの時点の何を指しているのかは分かりませんが

振り返り思い出すときに、私たちと同様に後悔があったのかもしれません

神様の為に頑張っているつもりが、自分が憎んでいることを行ってしまい

矛盾した信仰生活をおくることになることを

体験的に語っています。(7:15-25)

この罪を活性化させる律法については、

ローマの教会はユダヤ人と異邦人が共にいるため

モーセの律法とその他の律法が混載されて書いてあります

グラフの異端教会A(A´)、E,D と正統な教会B,Cも

広い意味で、律法を戒めに従う概念として適用可能だと思います

ところで、パウロは7章で律法主義への警告を促していますが

その冒頭7:1-6で結婚関係による例えによって律法からは解放されていると明言します

6:14でクリスチャンは、律法の下→恵みの下 

へ移行していることを説明しているのですが

7:1で律法が人を支配することを否定しています、7:4律法に対しては死んでいるのに

律法や規則でクリスチャンの信仰生活や教会を構築しようとするならば

死んだ夫を墓場から引きずりだすことになり、上記のパウロの体験談の様になる為に

教会指導者はカルト化を避ける為、非常に注意深く、

この律法主義に取り組まなくてはなりません

カルト化への要因において、この律法の性質で注意しなければならないことがあります

それは、口伝律法の存在です 

文書には起こされていないが、口頭で伝えられる規則のようなものです

福音書に登場するパリサイ人、律法学者は613あるモーセの律法の解釈を

口伝律法にし、モーセの律法を破らないための砦のように、この口伝律法を

民に守るように要求しました 

その数は安息日を守る一つの律法に対して1500個ほどが紐付けられているほどで

その権威はモーセの律法以上のものになっていました

マタイ11:28の重荷とはこの口伝律法のことを指しており民を締め付け苦しめました

マタイの23章でイエス様はこの律法学者、パリサイ人を痛烈に批判しています

そこで、注目したいのは23:15です、彼らラビには弟子がつきますが、弟子は

この口伝律法を丸暗記しては、違ったラビにつき丸暗記して渡ります

人間の”言葉・教え”であるのに神以上の権威を持たせ、

師から弟子へ口伝律法が伝わる時

その悪影響は倍増するというのです

口伝律法の概念は聖書だけでなく、どの分野にもあらわれていて

例えば、オウムのようなカルト教団は教祖よりもその脇を固める幹部が凶悪ですし

テロ組織も首謀者よりも実行するテロリストが凶悪です、

また政府のような権力組織でも、霞が関では逮捕者は出なくても、その地方所轄の現場職員は不正を強要され自殺にまで追いやられます

カルト的構図の真理がここにあると思います

その為、クリスチャンにとって神の言葉には権威がある為

教会において、神の言葉を解き明かしする指導者は聖書を正しく解釈し伝え

口伝律法が生まれ×2倍×2倍と悪事を働かないように注意しなくてはなりません

ところが、東京キリストの教会では数えきれないほどの、

東京キリストの教会の律法、規則、口伝律法がありました

その背景には、1サムエル24章でダビデが暴君であるサウルを殺す機会があったにも

関わらず、主が選ばれた王に手をかけなかったことをから拡大解釈し教理をつくり、

たとえ教会のリーダーが不完全でまちがっていたとしても

ダビデがサウルに従順であったように、信徒はリーダーに従順でなくてはならないと

教えていました、この口伝律法の影響は非常に大きく

その結果、信徒は指導者への不従順は神への不従順と捉えてしまいました

その為、聖書の解釈への関心は薄れていき、リーダー、指導者が神様の為に

こうしなさい!こうすべき!と言ったことが、どんどん口伝律法となっていきました

日曜日の説教、弟子訓練の面会のときのアドバイス、ミーティングでの会話、

子育てのアドバイス、夫婦関係のアドバイス、指導者になる為のアドバイス

職場での態度のアドバイス

などなどこれらが口伝律法となり、頭と心を締め付けていました

更に、弟子訓練は教える人と教えられる人が決められていて

パートナ-シップがトップリーダーから

ピラミッド状につながっていましたので、

上の指導者から下の信徒へと、口伝律法を教え合うことが

一時的なものではなく、しっかりと形成されていました

リーダーはこうあるべき、弟子はこうあるべき、学ぶ姿勢はこうあるべきなどです

熱心なクリスチャンとして見えたでしょうが、内面では肉的罪が活性化しながら

この弟子訓練ピラミッドを律法で達成しようとしていたわけです

おそらく一番多かった口伝律法は、教会のメンバーシップを増やす為に何が効果的に

結果を出すかを考えた律法でした

この弟子訓練ピラミッドを口伝律法が転がり落ち落ち着く底辺は

教会の子供たちでした、教会で生まれ育った子供たちが10代になるころに

その悪影響が姿を現すことになってきて、極度の親への反抗、不登校など症状は

様々でした 親たちは心配で小児専門でカウンセリングをうけ発達障害ADHD

の診断をくだされますが、これは明らかに子供に対する宗教的虐待の症状です

イリアムウッド先生にこの子供たちの現状を話しましたら

エホバの証人(もろみの塔)で起きていることと非常によく似ていると言われました

教会組織のピラミッド上にいる教会リーダーさん達はこの状態を見ても

自分たちは口伝律法の発信者なので2倍の悪影響ではなく、

1倍なので自分たちの過ちに気づくことなく、さらに下々の信徒に的外れな

アドバイスを繰り返していきます

結論

法主義に陥った信仰は罪の活性化を招き

更に神の権威を含ませた人間的教えの口伝律法は悪影響を増幅させ

教会はカルト化する

そして指導者はその過ちに気が付かない

カルトに関する本やWEBにあるカルト教会の特徴は

これらの悪影響による掛け算が生んだ肉のわざである

 

 

 

 

教会カルト化の訳③

教会のカルト化の訳を考えていきますが

私が以前、所属していていた

東京キリストの教会での体験を基にしていますので、聖書を解釈した上での

一つの適用と捉えてください。

この教会は聖書解釈においては、間違った福音を唱える異端の教会にあたるので

前回のグラフでの教会A(A´)、E,D異端グループに入ります

その為、過去にも学んだガラテヤ人への手紙から再度学びたいと考えました

ざっくりですが、パウロが書いたガラテヤ人への手紙は、福音の純粋性を

強調していて、1コリント15:1-11が福音がそれにあたり、

その福音に律法(行い)を付け加えるならば、福音では無い異質なものになることを

明言しています

もしこの手紙が無ければ、福音は混ぜ物だらけにされて、

ユダヤ教の一派になっていたかもしれません

現代にはプリウスのようなハイブリッド車があります

ガソリンと電気の二つの動力が絶妙に連鎖しながら走る優れものですが

福音がこのように、恵みと行いで完成されると考えるのでは、

恵みからおちることになります(ガラテヤ5:4)

パウロ書簡の特徴として、まず神学的議論の展開をし、そして実践的議論にはいります

この手紙では1~4章が神学的議論(1~2章はパウロの自身の経験に基づく)

5~6章が実践的議論(適用の勧め)になっています

神学的議論から実践的議論への文脈移行の最後にハガルとサラを用いて

比喩的な意味を解説しています(ガラテヤ4:21-31)

・ハガル(奴隷の女)・・・肉的・人間的によってイシュマエルを生んだ

シナイ契約(モーセの律法)、律法の奴隷(律法主義の民)

シナイ山(地上のエルサレム)、奴隷の子

・サラ(自由の女)・・・約束・超自然的・霊的によってイサクを生んだ

自由の契約(アブラハム契約・新しい契約)

カルバリの丘によって(天のエルサレム

約束の子、自由の子(天の御国の市民)

ガラテヤ4:28でパウロ

クリスチャンは律法、肉や人間的行い、業、によらず

超自然的に、新生した、約束の子である

それ故に創世記21:10,12を引用して

女奴隷とその子を追い出せと呼びかけました

霊的な意味はもとより

異端を唱えるユダヤ主義者達と律法主義も追い出すことを

呼びかけています

(ハガルとサラのハイブリッド式はあり得ないです)

ガラテヤ5章になり実践的適用に入るわけですが

5:1-12において、これまでの神学的議論を簡潔にまとめ

再度、具体的に短くし注意喚起してあります

そして、5:13から適用が始まります

5:13-24において、共存することのないハガルとサラが対立したように

肉の業と御霊の実が対立されます

その冒頭5:13では

  13 兄弟 たち。 あなた がた は 自由 を 与え られる ため に 召さ れ た の です。 ただ、 その 自由 を 肉 の 働く 機会 と し ない で、 愛 を もっ て 互いに 仕え 合い なさい。

多くの解説書を読むと、これは律法から解放され自由が与えられたのだから

「どんな罪も赦され、天国に行ける」からと、その自由の意味をはき違えて

何をしてもいいわけでなく、自己中心的な肉の欲や罪の赴く生活をしないで

自由と放縦を間違えないようにする生活の勧め と解説されているようです

クリスチャン生活の為に大切な適用だと思いますので、

否定はしませんが、、、

この手紙の文脈が、初代教会で問題の一つであった

何でも赦されるから罪を好き放題犯してもいいといった

法主義を解決する為のもの(ヤコブ書やローマの6章)

であれば、それもありかと思いますが

この手紙は一貫して、その真逆の律法主義への警告を取り上げており

しかも、緊急性をもって書かれている為にテーマが複数とは考えにくく、

絞られていると考えるのが普通であって、突然文脈が変わるのはおかしく

5:14・18に再度、律法という言葉が出てくるように

あくまでもキリストの自由をつけ狙う律法主義の文脈ではないかと私は思います

しかし何故、突然文脈が変わったかのように

5:13肉の働く機会・5:16肉の欲望・5:17肉の望む・5:19肉のわざ

などの人間の罪の性質が問題のテーマに取り上げられるのか?

という疑問がわいてきます

パウロの教会にあてた書簡の特徴は

その教会に訪問していること、また後に訪問していること

手紙を書くときはパウロ一人ではなく、複数の協力者があって

その教会の情報を得て書かれていることにあります

ということは、5:15のように、この教会のクリスチャンの間に教義の論争の問題と

上記のような肉的な罪の問題がガラテヤ地方の教会にあったと

推測されます

また著者が、熱心なもとパリサイ的ユダヤ教徒だったパウロは(ガラテヤ1:13-14)

熱狂的信者で律法的であった体験があることをふまえて

5:13に戻ると”肉の働く機会”に注目することができます

この”機会”と翻訳されている単語はアフォルメイというギリシャ語で

①出発点、敵地に築く作戦基地、上陸拠点、(遂行の)手段

➁原因、機会、折り、口実

この機会が採用されていますが、同様の単語は

ローマ7:8、11でも使われており

パウロは肉的罪の性質に関して軍事的用語を用いることから

この手紙の読者は単なる機会、チャンスというよりは

肉的罪が攻撃を仕掛けるために、上陸拠点に集結し、力を蓄え

機会をうかがっている

といったニュアンスを受け取ったのではないかと私は考えます

つまり、ガラテヤの諸教会に入り込んだ律法主義は

福音を信じるだけでは救われず、モーセの律法とその口伝律法を

行い、守らなければ救われない、

異邦人なのに、ユダヤ人のように歩まなければならない

信徒の頭には、

常に○○しなければならない、○○しなければ救われない

と律法と口伝律法があたまを支配していくようになっていったと思います

新生する前のパウロはこの状態の経験者であることから

体験的に律法主義に歩み始めると

同時進行で、肉の性質の活性化が始まり、攻撃を仕掛けてくることを

教えています(5:17)

この教会で罪が横行していることを、知ったパウロ

法主義による肉的罪の活性化が起きていることを教えたかったのでないかと

思います

他の教会にあてたパウロ書簡にも

罪の性質・救われる前の古い肉の性質についての教えがあります

エペソ5:1-5、コロサイ3:5-11

ですが、このアフォルメイは使われていません

ローマ7章とガラテヤの5章の律法主義への警告の時につかわれています

つまり、行いが紛れ込んだ間違った福音を受け入れてしまい

法主義に陥った教会は救われる為に、その多くのルールの故に

○○しなければならないと熱心で頑張っているように

見えますが、その見た目とは裏腹に

心中では、罪が攻撃の機会をうかがってており基地に集結しつつあることになります

東京キリストの教会では求道者が救われる為のプロセスの中に

弟子として○○しなければならない、洗礼を受けなければならない

そうでなくては受けた救いを失うかもしれないと教えられるので

常に○○しなければならないという、律法主義に支配されています

その為、肉的罪の活性化が起きていました、諸問題はあったのですが

弟子訓練の厳しさと、その弟子訓練パートナ-シップによるガス抜きで

なんとかしのいでいました

ですが、2003年にこの教会は信徒の不満と締め付けが爆発し大混乱がおきました

その際にリーダーシップへの不信・不満によって

弟子訓練パートナ-シップも自然崩壊し、

これまでの締め付けから信徒は解放されたのですが

その時の状態は、まさに、本当に、見事に 

ガラテヤ5:19-21にあるそれぞれの肉のわざが明になりました

個人攻撃は避けたいので、具体的な内容の記載は避けますが

ひどく明らかでした、

例えば、泥酔であれば、たまたま飲みすぎた-ではなくアル中的です

敵意~分派の項目に至っては、いまだにその傷が癒えていない人が多くいます

もちろん100%すべてのメンバーではありませんが

その影響をすべてのメンバーは受けました

わたしの個人的な印象は、東京キリストの教会への

コミットメント、献身度の高かった人ほどその傾向が目立ったように思えました

東京キリストの教会では

求道者へ自身の罪についての聖書スタディがありますが

その際にこのガラテヤ5:19-21をもとに

思い出せる限り自分の罪を書かせ叱責すのですが、、、

何とも、皮肉なことです。

結論

福音を攻撃する異端への警告を行ってくださった

ガラテヤ人への手紙から

信じるだけの福音に、行いや業を混ぜ合わせ

異質なもので救われようとするならば、

法主義が肉のわざを明らかにさせ

教会はカルト化する

ガラテヤ5:9

9 わずか な パン種 が、 こね た 粉 全体 を ふくらませる の です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教会カルト化の訳➁

 先日ですが、6回シリーズのキリスト教系カルト対策のセミナーに参加してきました

カルト対策のベテラン牧師さん数名による、カルトの現状や対策

脱退者による証しなど、貴重なお話を沢山聞くことが出来ました

その中で、数多くのカルト教会を見てきた牧師さんから

グラフ化して解説して頂いたのですが

それが客観的に理解する為に参考になると思ったので

紹介させて頂きたいと思います

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 それがこちらのグラフです(私なりにアレンジしてあります)

カルト教会は

縦軸・・・聖書解釈の誤り、異端性(上に行くほどひどい人間的解釈)

横軸・・・カルトの具体的被害(右に行くほど人間的・社会的破壊)

の関連性から生まれているということのようです

横の点線は救いの教理が間違っている教理のラインになり

間違った福音を教えていることになります

例えば、三位一体を否定しイエスは神ではないとか、別のメシアがいるとか、

救われる為に○○しないと救われないなどです

教会BやCは正しい福音を教えている正統な教会であったが

カルト化し被害を出してしまい、牧師が逮捕される事例まであるようです

教会D,Eは間違った福音を信じる”異端”とよばれる教会です

東京キリストの教会は2003年の問題勃発を境にAからA’に移行したように

思えます

教会Dは最悪ということになるわけですが

どれも喜ばしい教会はなく残念な状態です

ご自身の教会に疑問をお持ちのようでしたら

参考にしてみてください

 そうゆう訳で

前置きが長くなりましたが

この二つの軸を念頭に置きながら

次回、聖書から学びたいと思います

 

 

 

 

教会カルト化の訳①

教会がカルト化する問題については、ネットや様々な書籍に沢山あるのですが

その著者には二種類あります

健全な教会で信仰をもつようになり、カルト問題に関わってくださっている方と、

カルト的教会でキリスト教を知るようになったが、問題に気付き、脱退した後

信仰に導かれた人です

どちらの立場がいいということではないのですが

私は後者にあたりますので、元カルト的キリスト教徒としての視点と経験で

この教会のカルト化について書いてみたいと思います

何故かと言いますと、

どうしてカルト化してしまったのか?

なぜカルト的教会なのか?

と疑問が尽きないからです

それは、カルトの人は皆さん”いい人”だからです

言い換えると”悪い人ではない”と思うのですが

教会にはカルト的問題が存在するという矛盾があるようにおもうのです

私が初めて、この教会を訪れた時は

いい意味での衝撃しかありませんでした

訪問者を明るく迎え孤立しないように歓迎してくださり

皆さん、明るく、よく与え、暗い人は見当たらず

とても魅力的でした

素直に、あーいいなー、こんな風になれたらいいなーと思ったものです

こういった状況をカルト研究者は”ラブシャワー”と呼ぶそうです

もちろん悪い意味で使います

つまり、質の悪い営業マンが

最初はいいけど、見込が失せると手の平を返すように態度が変わるように

勧誘の手段としての”ラブシャワー”に気をつけるようにと注意喚起します

勿論その通りなのですが、冒頭に書いたようにこの考えは、

カルト未経験の研究者の意見であるように感じます

元カルトの私が今でも思うのは、カルトの皆さんは

テクニック的や裏表を使い分ける詐欺師ようではなく、

純粋な気持ちで与えていたと思っていますし

エス様の様に歩みたいという熱心さの現れであったとおもいます

また、教会の伝道者やリーダーさん達はさらに魅力的で

人格的にもタレント的にもいい人オーラが

一般信徒のパワー三倍増しに見えました

何かと話題の多いトランプ大統領ですが

連邦議会への暴徒乱入をうけて

トランプ氏を暴徒を先導したカルトリーダーといったようなニュース記事が目立ちます

しかし、聖書が注意喚起する偽指導者は見た目は羊で中身はオオカミ(マタイ7:15)

とりあえずトランプ氏は、まず見た目がオオカミなので

中身が羊であるか、もしくはオオカミであるかになり

このカルトリーダーは当たらないようにおもいます

教会の指導者は見た目は魅力的な羊のようでした

ところが、教会ないはカルト的と言える問題の実を結んだ結果となっていました

傷ついて信仰から離れる人、鬱になる人、結婚や男女交際の制限を受けた人、

宗教的虐待を行う人、日曜日の礼拝に参加できないことで退職せざるを得ない人

など様々ありました

聖書を読み、熱心に祈り、犠牲を払い、弟子として頑張ったのに

なぜ?

と思うわけです

そして、上記のような問題がありながらも

カルト的教会から離れようとしない、問題直視しない

大きな理由が

教会の人はみんないい人で熱心だから

お世話になったから

助けてもらったから

などが

問題意識を上回ることになり

みんな罪人だから

完璧な教会は無いよ

と自分を慰めるとになります

わたしはこの悪循環無限ループを

たち切らないと同じところをぐるぐる回されるだけで

やがて疲れはてて、信仰から離れる結果をもたらすと考えます

そこで、やっぱり

なぜ?を考えたいと思います

次へと続きます。

 

 

 

 

 

 

 

ガラテヤ人への手紙から 5の3

ガラテヤ3:6から22に救われる(義とされる・罪赦される・神との関係の回復)原則があると書きましたが、パウロは信仰の父である、アブラハムを引用し異邦人であるガラテヤ人(ユダヤ的背景の無い)に解説を始めます。

ガラテヤ3:7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。9 それで信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

創世記12章~15章にある

神とアブラハムが交わした約束で、

アブラハム契約と呼ばれるものですが、これを引用しています。

創世記の文脈から3章~11章までのアブラハム登場以前は

神様は全人類に対して語りかけていますが

人類は不信仰によって、その声に耳を傾けることなく、バベルの塔を最後に散らされてしまいます

それから神様は全人類にではなく、

一人の人を選び,たて上げて神様の計画を進められます

それが12章から始まるアブラム(アブラハム)との歩みとなる訳です

その歩み初めにおいて、神様はアブラハムと約束を交わし、それを基に計画を進められるわけですが、この約束、アブラハム契約と呼ばれるものは、文法的には現在形のもので

12章1節から、今日の私達、また終末論に至るまで続く契約です

ですから、今日、福音を信じて信仰と恵みによって義とされるということは、

ガラテヤ3:7~9にあるように、アブラハムと神様が結ばれた契約が信仰によって

私達にも適用されて、祝福に預かることが出来る恵みを受けることになると

パウロは伝えてくれています。

アブラハム契約についてですが、3つの中心的な条項があります。

①子孫の約束

➁土地(カナンの地)の約束

③祝福(地上の諸民族の祝福)の約束

この3つの約束はアブラハムですべて成就するものではなく発展します

①子孫の約束は→1歴代誌17:10~14のダビデ契約・キリスト・イエスの誕生

➁土地の約束は→申命記29:1~30:20土地の契約
③祝福の約束は→エレミヤ31:31~34、ルカ22:20新しい契約(罪の赦しと聖霊

(これらのことからアブラハム契約は聖書全体を貫く背骨のようだと言われています。)

ガラテヤ3:14

アブラハムに与えられた祝福→キリスト・イエスによって→異邦人にまで及び→約束されたれた御霊を受ける

このことは、アブラハム契約の祝福が発展した新しい契約(イエス様が十字架で成し遂げて下さったもの)を私達が信仰によって受けたことを伝えてくれています

つまり、信仰によって義とされた者は神様と契約関係にあることになります。

パウロはさらにガラテヤ3:15~22において、モーセの律法(シナイ契約)とアブラハム契約をとりあげて、アブラハム契約が本筋の契約であることを述べた後、ガラテヤ3:20においてアブラハム契約の性質を解説しています。 

シナイ契約は仲介者(天使たち、使徒7:38、ヘブル2:2)を介して、イスラエルの民が当事者としてその内容に同意して神様とこの契約を結んでいます。契約形態は双務契約(当事者の双方が互いに対価的な債務を負担する契約)になり、イスラエルの民の律法違反はそのまま契約違反となります。(ガラテヤ3:10~13)

しかし、アブラハム契約では

:20、約束の場合、神は一人で事を運ばれたのです。”(ここは新共同訳が明確)

とかいてありますが、この箇所は創世記15章において、12章から語られた約束が正式に結ばれた場面の描写がされています。当時のパレスチナで行われていた契約には幾つかの種類がありました。手の契約、塩の契約、靴の契約などありましたが、神様はその中で最も重い契約を選ばれました、それが血の契約と呼ばれるもので、(創15:9,10)引き裂いた動物を向かいあわせにし、その間を双方が通り抜けて結ばれる契約で、もしこの契約に違反を犯すなら、この引き裂いた動物のようになって、血をながしてもいいと言う誓いをたてるものです。ところが、その契約締結時にアブラハムは眠りのなかにあって、神だけがその引き裂かれた動物の間を通り過ぎ、神だけが当事者となられました。ゆえに、アブラハム及びイスラエルの民の違反がこの契約に影響を及ぼすことがないことになります。神はアブラハム契約を仲介者のいらない、通常ではありえない、片方だけが債務を負う、片務契約として締結してくださいました。つまり、神様だけが血の契約の責任を取ってくださったにもかかわらず、罪人が自分も何か責任を取りますと言う事は無意味な事となり、救いは我々には条件の無い、片務契約=無条件契約なのだから、救われるために、○○しなくてはならないということは神様の意に反するとパウロは解説してくれています。

片務契約の故に、イエス様自らが、引き裂かれた動物のごとく血を流され、一方的に、本来は架かる必要のない十字架において、人の罪の代価の為に、御自分を捧げて死んで下さり、復活し、新しい契約を結んでくださいました。

無条件の愛はこの契約の基にあります。

ヨハネ1:14 言は肉となって、私達の間に宿られた。私達はその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。

”恵み”はヘブル語でヘセッドで、

契約への忠実さ・契約に基づく愛、の意味

信仰と恵みによってのみ救われる。

信じるだけ、と私達には、簡単なことのようですが

その裏で神様は本当に優しい。

 

 

 

 

ガラテヤ人への手紙から 5の2

 ガラテヤ3: 5あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。 6それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

パウロは異邦人であるガラテヤ人たちに旧約聖書から例をあげて弁明をします

信じるだけで救われることは、突発的にパウロが考え教えているのではなく

旧約聖書にすでに教えられていると言っています

創世記15:1~6 の:6を引用していますが、その内容は

啓示・・・神が、無数の星のようにあなたの子孫はこのようになる と語られ

応答・・・アブラハムはそれを信じた

そして義とされた

パウロはこの原則を提示しています

:7~14の間に何度も

信仰によって・・・、や信仰・・・という言葉が使われますが

要するに、信仰とは

”神の啓示に対する応答”

であると言う事を認識しなくてはなりません

その具体例がヘブライ人への手紙11章に多くあります

各時代や人物によって、”啓示”の内容は異なっていますが

神が語られて→人が応答する(信じる)それが信仰=そして義とされる

この原則は聖書において一貫して変わりません

現代の私たちは星を眺めて自分の子孫がこのような大家族になると信じても救われません

使徒2章のペンテコステ以降の現代の私たちに語られている啓示の内容は

キリストが私たちの罪の為に十字架に架けられたこと、死んで葬られ、3日目に復活したこと

このことが神が今の私たちにお示しになった啓示となり

原則に基づき

それを応答として信じて救われます、

そのため救いは信仰と恵みよると言われるのです

ところが、東京キリストの教会では

この”信仰”が違った解釈で適用されています

信仰とは、へブル11:1望んでいる事柄を確信し、

とここだけ切り取って、自分が望むことを現実化させること

と教えられています(文脈から神様からの啓示が抜けてます、、、)

常に教会の人数成長を追い求めていましたから

その為のゴール達成が必要でした

例えば、ある人が日曜礼拝に5人の訪問者を連れてくるとゴールをたて

それを達成すると、その人は信仰があると評価されます

しかし、結果を出せずにその指導者のグループに人数の成長が無く

減少が続くと信仰が無いと評価され、リーダーシップから降ろされる

こともありました

神様の為に何にか考えて望む!信仰だ-と頑張るわけですが

これは、信仰ではなく思い込み

であって自己啓発的なものと同等だと私は思います

夢やビジョンを否定するわけではありませんが、信仰=思い込みの実現、という解釈で聖書を読み進めていくと、文脈からそれてしまい、自分の思いや考えを読み込んでしまうことになってしまう為、注意が必要だと思います。

最近は、昔ほど派手なプレッシャーはないそうですが

この間違った解釈からくる

東京キリストの教会的口伝律法は今も健在だと思われます

行いによって救いを得ていると信じているうちは

何かしら行いからの結果が出続けていないと

何とも言えない不安が付きまといます

その不安はもしかすると、方向転換を導くサインなのかもしれません、、、。