弟子とは その5の続き

前回、信じるだけでは十分ではない という教えを

まだ救われていないと促す段階で適用させることに

問題があると書きました。

誤解の無いようにしますが

何もしない方がいいとかサンデークリスチャンでOKとか

そういった議論ではありません

適用のタイミングと解釈に指導者の人間的思い入れが強く感じることをお伝えしたいのです

前回、テキストでは 信者(信じた人)と弟子 を区別して2種類に分けて教えると書きましたが

ヨハネ福音書全体の文脈では

信者(信じた人)が2種類に分けて書かれています

2:23~25 しるしを見て信じた人がいたがイエス様は彼らを信用されなかったと書いてあり人間の心の中をご存知であると前置きしてあります

今回の引用箇所からは7:10仮庵の祭での出来事の一文になり8:59までの長い文脈になりますが、もう少しまとめると7:37~7:51、8:12~8:59になりますが

その信じたユダヤ人たち

と   その対照的に

9章の生まれつきの盲人です

前者の信じた人たち

7:37の仮庵の祭でイエス様が大声で招かれたのですが、その際多くの人が信じています
8:12で人々はさらにイエス様に教えられていき
8:31で信じた人々に言われたとなり
だんだん人々の心のウソがばれていきますが
エス様がご自分が神であることを宣言されると
この信じた人々はイエス様に石を投げつけようとします
この行為はユダヤ的に神への冒瀆罪に行うもので
エス様を神の御子メシアとは信じていなかったという結末になっており
この時の福音に信仰で応答していないことが分かります

信じているが滅びに至る人々の結末です

後者の生まれつきの盲人は

9:1~41において

見えない目を見えるようにして頂いたこの盲人は

宗教的迫害から試練にあうことになるのですが

結論は、

9:36主よその方はどんな方ですか その方を信じたいのですが

:38~彼が主よ信じますと言ってひざまずくと、

となりイエス様を神と信じ礼拝することになり

永遠の命を受けるものとなります

この時の福音というものを理解する必要があるとおもいますが

(洗礼者ヨハネからイエス様が十字架にかかる3年半から4年ほどの間)の福音の内容は、ナザレのイエスが神の御子で救い主メシアである事を信じること、これによって救われました この福音で救われる最後の人物はおそらく同じく十字架にかけられていた犯罪人の片方だと思われます
(ちなみに今の(使途の2章以降)福音はイエス様が私たちの罪の為に死なれたこと、そして葬られたこと、3日目によみがえられたこと を信じて救われます 1コリント15章)

ヨハネ福音書の書かれた目的は、イエスが神の子であることと、イエスを信じるすべての人は永遠の命を得ることをはっきりと証明すること と言われています

前者のユダヤ人たちは、私たちはアブラハムの子孫だから大丈夫です、救われていますと考えており  彼らの関心は神の御国に入ることは当然の前提でその後の地位などにありました

ある牧師さんが言われていましたが、無神論者と救われていると思っているが実は救われていないクリスチャン、共に救われていないことで、いつか神様の前に立つことになるわけですが、後者のほうが難しいと感じると言われていました

信じるだけで救われるというならば、どの程度信じればいいのか?と言いたくなりますが、どの程度は人間の業の度合いの問題です

どの程度ではなく、何を信じるのか?に注目すべきと思います

かつての私が信じていたこれで救われるという福音は

エス様が私たちの罪の為に死なれたこと、そして葬られたこと、3日目によみがえられたことを信じること

に付け加えて

罪の勉強で砕かれること、十字架の勉強で砕かれること、弟子であること、その強いコミットメント、水の洗礼を受けること、十分の一の献金を認めること、教会のメンバーであること、救われる前に教会スタッフのカウントコストに合格すること

などでした

そして、私は大丈夫だと信じていましたが、

ところが本質は、前者のユダヤ人のようであり、霊的にイエス様に石を投げつけているものでした

なぜなら、これはもう一つ別の福音だからです(ガラテヤ1:7)

エス様が私たちの罪の為に死なれたこと、そして葬られたこと、3日目によみがえられたこと を信じるだけで救われるとは

簡単すぎて難しいかもしれません

しかし、十字架にかかられたイエス様は簡単では無かったとおもいます。

さらにこの方は9:35わざわざ探して見出してくださいます

私たちに出来ることは信じて、信仰で応答すること以外にはないのではないでしょうか