脱カルトと東京キリストの教会と元メンバーの私

脱カルト・聖書から学んだこと

その2⃣ ヨハネ21:15~19イエスとペテロ

これも有名な話ですが

愛するというギリシャ語の動詞に

区別がつけられているということです

エス様がまずアガパオー(神の愛)で聞かれ

ペテロはフィレオー(友の愛)で答えます

もう一度、

エス様がアガパオー(神の愛)で聞かれ

ペテロはフィレオー(友の愛)で答えます

3度目は

エス様がフィレオー(友の愛)で聞かれ

ペテロはフィレオー(友の愛)で答えます

そして、関係修復と弟子訓練がおわります

このやり取りは

A→B

A→B

B→B

で完結します

そうするとアガパオー(神の愛)より

フィレオー(友情の愛)の方がいいのか?

という疑問が生じますが

著者の意図はそこには無いと思います

少し日本語らしく違約して表現してみると

エス様がペテロに対して 出来るのか?と問いただし

ペテロは 出来ませんと答える

再度、

エス様がペテロに対して 出来るのか?と問いただし

ペテロは 出来ませんと答える

3度目に

エス様がペテロに対して 出来ないのか?と聞くと

ペテロは 出来ませんと答える

世の中の価値観だと

出来ると答えるのが正解だと思いますが

出来ないと答えるのが正解だったということになります

聖書的価値観は逆説的真理を教えているので

その文脈に一致すると考えます

ペテロへの弟子訓練は

主の晩餐からすでに始まっていたようです

ヨハネ13:6弟子の足を洗うとこでは一番にしてもらていません

ヨハネ13:23、24過ぎ越しの食事では、イエス様の隣はヨハネであって

ペテロは下座の方にいたようです

少し謙虚にさせられる様になっていました

ヨハネ13:36~38ついには離反の予告をうけますが

この時のペテロは裏切るなんてとんでもない

私は主の為に命を捨てる!と言ってます

この時点で3度の質問を受けていれば

すべてアガパオー(神の愛)で答えていたと思われます

御国の鍵を渡されたペテロの中にはまだ

自己中心的な義(self righteouness)

独りよがりな頑張り

自力で頑張る心 などが根強く残っていて

主の僕としては

これらが砕かれ、変わる必要があった為に

エス様は最後の弟子訓練を

行ったのではないでしょうか、、、

共につらい経験だったとおもいますが

”3度私を知らないと言う”預言の通りになりました

ペテロは復活のイエス様に最初に会ってます

その後10人の弟子と一緒に

そして11の弟子と一緒に会い

4度目にこのガリラヤ湖で再会し、やっと心を開いてます

ペテロが主を裏切ってしまった後悔や自己嫌悪

もう本当に無理!とあきらめてしまったように感じ取れます

逆に言うと、それほどに主イエスに真摯に熱い思いがあったことが

うかがえます

ヨハネ21:17でペテロは出来ると言いたいけど

言えません、ご存知のはずですとしか言い様がないといいました

命を懸けますと豪語していたペテロの心は砕かれていました

それをイエス様は良しとされたのです

主の為に働く僕の心の器は

自己中心的な自分の義ではなく

神の義によって立たなくてはなりません

モーセは自分の義で立ち上がろうとしましたが

殺人を犯し、同胞の仲裁に失敗し非難され

あっさり荒野へ出されました

40年経ち肩の力が抜け羊飼いとなり

神の器として整えられた時

神からの招きがありました

出エジプト3章~

燃える柴のところで召命を受けましたが〜

モーセは何度も出来ませんと言い

他の人でなんとか、、、と断っています

パウロは弱い時にこそ強い(2コリ12:10)と言っています

モーセもペテロもパウロも主の為に偉大な結果を残しています

不思議なことですが、神は出来ない者を使って出来るように

されるお方の様です

追伸

この解釈はギリシャ語の違いから学んだことですが

エス様とペテロはギリシャ語で会話したのか?

愛のことばを細かく使い分けていたのか?

そのようなヘブライ語アラム語で使い分けはあったのか?

と疑問を持つこともあります

そこで思いついたのが

ヨハネ福音書1章1~18の前書きで”ことば”はロゴスというギリシャ

で書いてあり、このギリシャ語のもつ意味から

”ことば”を解釈するのが

神学校の定説の様ですが

その解説は哲学のようで全くしっくりきません

ユダヤ教のラビ文章研究によると

この”ことば”という概念は

ラビたちが神学的に頻繁に用いていたもので

アラム語のメムラという概念と一致するというものでした

つまり、ヨハネギリシャ哲学者ではないので

アラム語のメムラ(ことば)という概念を

なんとかギリシャ語で表現するならロゴスであろうとして

用いたという説がしっくりきます

それを同じヨハネ福音書で適用すると

自分の義→神の義を持つのが主の僕

というようなユダヤ的概念があって

それを表現するために

アガパオーとフィレオーを用いたのではないのかな

と私は考えました

これはユダヤ的研究者にでも聞かないと分かりませんので

個人的見解です

 

 

 

 

その1⃣ ヨハネ21:15~19イエスとペテロ

復活されたイエス様がガリラヤに戻った弟子たちに現れ

取れた魚とパンで食事をした後に

エス様とペテロの間で3度交わされた有名なやり取りの場面

この箇所を読んで大きな決心をしたり

エス様の愛を感じたりと

信徒にとって励ましとなる聖書箇所ですが

私が東京キリストの教会に在籍中は

この聖句は日本語の訳のまま文字通り

エス様を愛するか?と3度聞かれて

3度”はい愛します”と答えられるのが

エスの弟子の正しい信仰であり確信であると信じていました

求道者がクリスチャンになる学びが終わりに近づいた頃に

サークル感覚で教会のメンバーにならないように

コミットメントの確認の為この聖句を使ってました

つまり、本当にやる気があるのか誓約を取るようなものです

しかしながら、この覚悟がまるで救いの条件であるかのように

ねじ込んでくるのは間違いでした

求道者はまだ失敗をしていないので

たやすくこの質問に答えられるのですが

信仰に入ってから、大きな罪を犯したり

教会を離れてしまってから、戻ってきた人

つまり、ペテロのように過ちを犯した人にも

この聖句を引用していました

当人は申し訳なく思って告白したり

教会に戻ってきたわけですが

そこで、3度の質問をするわけです

3度きかれて、3度出来ると誓えるのか!と

落ち込んでる人に数人で詰め寄ります

当人は既に出来なかった事実があるわけなので

ここで出来ると誓えるわけは無いのですが

誓わないと話が前に進まないので

何とか誓えるように

心を変える努力をしなくてはならなくなります

正直な心を自分で否定しなくてはいけないので

自分で自分の心を捻じ曲げることになり

次第に、どれが本当の自分の気持ちなのか分からなくなり

カルト的信仰の沼に落ちていくことになってしまいます、、、

エス様はブラック企業のように

追い込むために3度質問するわけは無く

信仰が回復したペテロとは真逆になっているのに

解釈の誤りに当時は気付けませんでした

健全な信仰への道:メシア預言を比喩的に解釈しないこと

旧約聖書には、メシア預言が四類型あり

初臨のみ、再臨のみ、初臨と再臨、それらすべて含んだ贖いの業すべて

となりますが、今回は初臨について書かせていただきたいと思います

とりわけ福音書についてです

メシア預言に関して復活のイエス様御自身がこう言われています

エマオ途上にて ルカ24:25-27

25 そこで イエス は 彼ら に 言わ れ た。「 ああ、 愚か な 者 たち。 心 が 鈍く て、 預言者 たち の 言っ た こと すべて を 信じ られ ない 者 たち。 26 キリスト は 必ず その よう な 苦しみ を 受け、 それから、 その 栄光 に 入る はず だっ た のでは あり ませ ん か。」 27 それから イエス は、 モー セ や すべて の 預言者 たち から 始め て、 ご 自分 について 聖書 全体 に 書い て ある こと を 彼ら に 説き明かさ れ た。

その後弟子たちに現れ ルカ24:44-48

44 そして イエス は 言わ れ た。「 わたし が まだ あなた が た と 一緒 に い た ころ、 あなた がた に 話し た ことば は こう です。 わたし について、 モー セ の 律法 と 預言者 たち の 書 と 詩篇 に 書い て ある こと は、 すべて 成就 し なけれ ば なり ませ ん。」 45 それから イエス は、 聖書 を 悟ら せる ため に 彼ら の 心 を 開い て、 46 こう 言わ れ た。「 次 の よう に 書い て あり ます。『 163 キリスト は 苦しみ を 受け、 三日 目 に 死人 の 中 から よみがえり、 47 その 名 によって、 罪 の 赦し を 得 させる 悔い 改め が、 あらゆる 国 の 人々 に 宣 べ 伝え られる。』 エルサレム から 開始 し て、 48 あなた がた は、 これら の こと の 証人 となり ます。

王なるメシアを望んでいた弟子たちにとって

受難のメシアを信じることは難しいものでした

そこでイエス様は聖書(旧約聖書)を使ってご自分が

メシアであることを弟子たちに証明されました

つまり、聖書(旧約聖書)に書かれてある様々なメシア預言と

弟子たちが見聞きしていることを突き合わせ

ナザレのイエスに成就しているのだから

この私がメシアであると弟子達に教えられました

新約聖書がないこの時代に

エス様昇天後の弟子たちはその教えから学び実行しています

使徒8:26-39 ピリポによるエチオピアの宦官の回心イザヤ書53章

使徒17:1-4 パウロシナゴーグで聖書(旧約聖書)を基にイエスのメシア性を証しした

使徒18:27-28 アポロも聖書(旧約聖書)を基にイエスのメシア性を証しした

使徒28:23 パウロモーセの律法と預言者たちの書によって説得した

これらのことからわかるように、初代教会においての伝道は

エマオ途上のイエス様と同じように

旧約聖書のメシア預言の成就からイエスがメシアであることを

証明していることがわかります

新約聖書が与えられた私たちは、福音書を取り扱う際に

このような背景を踏まえて解釈することが大切だと考えます

 

当時のユダヤ人に広く浸透していたメシア預言の一つが

イザヤ35章です

5   その とき、 目 の 見え ない 者 の 目 は 開か れ、 耳 の 聞こえ ない 者 の 耳 は 開け られる。 6   その とき、 足 の 萎え た 者 は 鹿 の よう に 飛び跳ね、 口 の きけ ない 者 の 舌 は 喜び 歌う。 荒野 に 水 が 湧き出 し、 荒れ地 に 川 が 流れる から だ。

メシアが来られる時、しるしとしてこのようなことが起こると

待ち望んでいました

その内の一つ

 ”口 の きけ ない 者 の 舌 は 喜び 歌う”

この預言の成就を記したものが福音書

マルコ9:14-27(マタイ17:14-18、ルカ9:37-43)

エス様が口をきけなくする悪霊に取りつかれた子をいやす場面です

その内容は

悪霊の追い出しは、悪霊の名前を呼びだし追い払うものでしたので

(マルコ5章ゲラサ人の街での悪霊の追い出し参照)

口をきけなくする悪霊の場合、それを行えるのは

メシアであるというのが当時の認識でした

この父親はイエスがメシアであるという信仰を持ちかけていたところでしたが

弟子たちの不信仰の影響を受け、自身の信仰が揺らいでいるところに

エス様は父親の信仰告白を引き出すために叱責されました

エス様が招かれたように信仰告白を行い

その告白によって、父親はすくわれました(恵みの要素)

また、イエス様はご自分がメシアであることを

否めないので、イザヤ35章の預言通りに

口を利けるように子供を癒されました(恵みの要素)

というもので、著者の意図をくみ取るとき

ナザレのイエスはメシアであるというのが

第一義的な強いメッセージといえます

 

ところが、この口をきけなくする悪霊の追い出しの話を

メシア預言抜きでの説教を聞いたことがあります

説教者はこの話を子育ての話として扱っていました

弟子たちの不信仰が叱責される”

父親が叱責され悔い改める”

結果

問題ある子どもが癒される”

にポイントを置き

教会の2世たち(子供たち)が救われないのは

親の不信仰に問題があると説くのです

父親が悔い改めたならば、子供が救われたのだから

親はもっと真剣に変わりなさいと叱責します

エス様が叱責したのだから

きつめに言ってもいいだろうとなるわけです、、、

自分の子供の救いを願わない親はいないので

親子関係や子育てに悩む親たちは

心にグサッとなり感情的に動いたので確信だと

受け入れる人もいました

私は、子育ての話になるのはかなり飛躍した解釈だと思い

百歩譲って適用の話かなとモヤモヤが止まりませんでした

子の救いは親が握ることになり

叱責された親は、子を叱責するという

カルト的サイクルに踏み入れる可能性を高めてしまい

救いの中心である、イエス様がどこかに行ってしまうのです、、、

(説教者の名誉の為の補足・・・悪意はなく、子どもたちの為と思っているのは真摯な気持ちです)

本当に起こった事実なのに、たとえ話のように

比喩的解釈をしてしまうと、二重にも三重にも意味付けを求め

スピリチャルで啓発的な話になってしまうのです

 

エス様の業には恵みの要素があふれていますので

福音書から、恵みの業にフォーカスした説教や

癒しのメッセージの書籍から恵まれることは

すばらしいことなので、そこを否定してる訳ではないことは

ご理解頂けていることを前提に話をすすめますが

カルト教会に限らず、教会や配信のメッセージには

福音書のイエス様の事柄を

信徒の感情に訴えることだけに

重点を置いたようなものもあると思います

時に必要な場合もありますが

そればかりを追い求めてしまうと

感情的に上がっているときは信仰が強い

下がっているときは、霊的に落ちているとなり

信仰の土台が自分のメンタルになってしまうことが懸念されます

メシア預言を比喩的に解釈することから方向転換し

50から60ある旧約の初臨のメシア預言が新約に成就していることに目を向けるとき

エスが神であるということ、

神の約束はすべて成就する

という強いメッセージを受け取ることになり

創世記から黙示録まで神様がなさろうとしている

聖書全体の文脈を知る手掛かりになります

そうこうしてるうちに、気が付くと浮き沈みのない信仰へと

変えられていくのではないかな~

と私は信じています。

 

 

 

健全な信仰への道:最初の聞き手や読者の理解

聖書が書かれた時と現代では時間的な隔たりがありますので

現代的な常識や習慣を用いて解釈することはよくありません

解釈学のゴールは著者の意図を探し当てるところにある為

語られた神の言葉の、最初の聞き手や

書かれた手紙の、最初の読者が

最も明瞭に理解した意味や内容を知ることによって

著者の意図にたどり着くことがあります

少々回りくどい言い方で申し訳ありませんが

要するに、

書かれた時の文化的背景を知って、

本来の文脈や意味から反れないようにする

ということになります

例えば、私は洗礼で救われると

間違った救いを信じてしまっていましたので

ヨハネの3章のイエス様とニコデモのやり取りのなかで

”水と御霊によって生まれる”

と出てくると、水=洗礼と

解釈してしまっていました

当時の人では、水で生まれるとは

出産の羊水が一般的理解なので

こちらを解釈に採用します

そうすると、人は生まれた後、

御霊によってもう一度生まれて

神の国に入ることを教えておられ

アブラハムの子孫が生まれつき救われるという

当時のユダヤ的常識をイエス様が否定された

ということに解釈されます

聖書だけではたどり着けない当時の常識なので

同じ時代のラビ文献の研究や歴史的文化的研究に

詳しい方の知識をお借りすることがお勧めです

 

また、カルト的信仰に陥っていると

沢山の口伝律法に縛られているため

カルト教会的ルール違反を犯さないような癖がついてしまいます

そのような時に、ルカ9:59、60

エスは別の人に わたしに従って来なさい と言われた。

しかし、その人は言った。先ず行って父を葬ることをお許しください。

エスは彼に言われた。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。

あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。

を読むと、なんとも居心地の悪い引っ掛かりをしてしまいがちで

コミットメントを試されているような気がしてしまいます

なぜなら、東京キリストの教会では弟子の条件が

救いの条件であるため、日々吟味が必要だからです

そんな中、この聖句の適用を思うとき

お葬式と教会の日程が重なるときには教会事を優先すべきか?

と悩んでしまいます

教会優先のほうが弟子としてのコミットメントが高い様な気がするし

教会を妥協すると救いは大丈夫なのか?

と悩んでしまうのです

文字道理はそうかもしれませんが

”先ず行って父を葬ることをお許しください”

という言い回しは当時の断り文句の一つで

相手が突っ込みにくい内容で断っていることが

そのまま書かれています

(現代の中東にもまだ残っているともいわれています)

今風に言うと、身内に不幸がありまして~とウソ言って

お誘いを断っているようなもので

また、決断を先延ばしにしているともとれます

聖書時代の最初の読者はこのような文化的背景を

理解して読んでいましたので

それを踏まえて解釈することが大切です

それを怠ると、本来の意味から反れて

もっぱら適用に心取られてしまいます

さらにこのような、緊迫した場面の聖句を使って

カルト的指導者によって間違った方向へ

導かれてしまいますので注意が必要です

第一義的にイエス様は葬儀出席の是非を議論している訳ではなく、

この人の心を見抜かれ

この人の返答を用いて教えられたのです

正しく解釈された聖句によって

主に導かれた適用がありますように願っております

 

解釈から少し話はそれますが

日本社会の冠婚葬祭には

宗教観が強くなりますので

クリスチャンは時に一線をひいて

やる事、やらないことが出てきます

ちなみに、カルト時代に私はお葬式に関わることで

父を1度、上司を1度 激怒させたことがあります

おそらく、カルト時代の私はイキッタ、

鼻につく宗教だけに

どっぷり漬かった感じが

もろに出ていたのだと思います

幸いなことに、脱カルト後はそのようなことは起きていません

以前と変えたことは特にないのですが

わたしのイキッタ思い込みが

人を神様に導き救いをもたらすのではないことが

分かったのは以前と変わったかもしれません

神様に感謝しかないです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

健全な信仰への道:教会

新約聖書に登場する「教会」は二つの意味に解釈されますが

こちらも文脈によって解釈されます

聖書には無い言葉ですが概念から分けて表すと

「普遍的教会」(目に見えない教会)と

「地域教会」(目に見える教会)になります

➀普遍的教会とは

使徒の2章ペンテコステから始まって今日まで、また携挙までの

世界中のキリスト信者すべてをさします

エペソ1:22、23 コロサイ1:18などにあるように頭であるキリストの体にあたる教会を意味しており、その信者のことですが

神の目から見た、本当に救われた聖霊内住の、真の信者で構成されています

教会に行かない信者も含まれますが、普遍的教会に含まれない真の信者はいません

➁地域教会とは

聖書に明確な定義はありませんが

特定の地域にある教会を指しており、エペソの教会など

地域の名前を表していることが多く、アジアの諸教会など

単数形も複数形もあります(普遍的教会は言うまでもなく単数)

メシアを信じ洗礼を受けた人々の集まりですが

エス様がマタイ13章(マルコ4章、ルカ13章)で種まきのたとえで

教えられたように、

真に救われている信者と自称クリスチャンで実は救われていない信者を

含む人々から構成されており、不完全さが語られています

コリント第一3:16、17では、神の宮(神殿)と言われており

聖なるものとパウロは教えています(文脈から地域教会を指している)

この両面を持ち合わせています

 

新約聖書を読み進めるときにはこの2つの教会を文脈で理解することが大切ですが

東京キリストの教会では、このような解釈を聞いたことがありませんでした

ボストンのこの教会から始まったムーブメントでは

他の教会クリスチャンは信じるだけの何もしない信者であって救われておらず

我々こそが、キリストの弟子であることによって救われているから

この教会が唯一の本当の教会であると主張していました

つまり、この教会員であることが救われていることで

キリストの体の一部であると教えていました

その為、自分たちの教会と他の宗派の教会の区別に重点をおき

他の教会クリスチャンを伝道し、救われていないと教えて、この教会のメンバーに勧誘していました(いわゆる羊狩りと言われるものです)

そうなってくると、普遍的教会と地域教会の神学的区別の必要性はなくなり

普遍的教会=地域教会=神の国=この教会、となってしまいカルト化してしまいます

その一例

求道者がこの教会員になる為の聖書学びプログラムがあり

教会についての学びもあるのですが、一番最後に行います

”教会はキリストの体なので救われたのち、あなたはその一部になります

例えば、親指が切り落とされた場合、親指は死にますが体は生きます

そのように、あなたが教会を離れると体である教会は残りますが

離れたあなたは霊的死にいたるので、救いを失わないようにしましょう”

というような内容も含まれていました

つまり、永遠の命を与えると言いながら、失うかもしれないと

ほのめかし、教会に留まることに念をおしておきます

そうなると、永遠の命ではなく、一時的な命ではないかと、、、?

 

普遍的教会と地域教会の理解がない場合

集っている教会を一歩下がって客観的に見ることが難しくなってきます

明らかにカルト的な問題が起きていても、変な意味で霊的解釈し

これは、神の試練だとポジティブにとらえてしまったり

外部からカルト的問題を批判されると

これは迫害であると捉えてしまい聞く耳を持ちません

マタイ24:9、5:11 ヨハネ15:21などで

迫害については「私の名の為に」と前置きされています

エス様が神であること、イエス様がメシアである

ことの信仰による迫害なのか

「東京キリストの教会の名」によるものなのか

客観的に判断しなければなりませんが

この教会を特別視してしまい表面的にしか対処できません

教会員も特別視してしまう傾向が強くなってしまうので

問題が起きた時のダメージが強くなってしまい

キリスト教そのものから離れてしまう人が出てしまうのも

特徴の一つと思われます

 

東京キリストの教会は過去に沢山の問題があったことを認めていますので、この点において

今は、唯一の教会とは言っていません

他の教会に移りたい人は推薦状のようなものを書いてくれるそうです

その反面、この教会員になりたければ

この教会の学びのプログラムをクリアしなければならないことは

変わっていないようです

外部には、不完全さをアピールしつつも

内部では、まんざら間違ってないと言っているような

ダブルスタンダードに思えて仕方ないのは私だけでしょうか、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

健全な信仰への道:文脈と神の霊感

【正しい解釈の為に文章の文脈(前後関係)を知ることが重要】

聖書を読み進め解釈する時、この文脈が非常に重要になっています

まず、社会の例をあげますと

政治家や芸能人がコメントした際に、

ネガティブなある一部分が切り取られて週刊誌記事になり

その切り取られた内容が本人の意図していない内容にもかかわらず

独り歩きしてしまい問題になることがあります

コメントの本人は弁明する際に、コメントすべてを読んでもらえると

意図した内容ではないことが理解されると主張します

つまり文章は文脈の一部分であるということです

世の中でさえ、このような弁明をしているにも関らず

聖書は神の言葉であるという単純な根拠のみで

聖書の一部分だけを切り取って解釈し教えている事があります

これは非常に危険で虚偽の教えに繋がります

また、聖書が相互関係の全くない、バラバラの文章や節の

寄せ集めの本であると言っているようなものです

 

聖書には本や手紙のように著者がいます

また、それを受け取るその当時の読者や聞き手がいます

例えば、エペソ人への手紙であれば

著者パウロがエペソの教会の信徒のことを考えて書いています

考えて書いているパウロの意志に神の霊感が働いています

その為、神の霊感を読み解くためには

パウロが書いている意図を探り当てることが必要です

その意図が文脈に現れているので重要になります

また、文脈を無視することは神の霊感を無視することであり

意味のない解釈になってしまいます

かつて東京キリストの教会の立ち上げ当初から

よく使われていたキーワードに「シャープな人」というものがありました

これは社会に「影響力のある人」という意味です

教会の拡大のために将来牧師になるこのような人が必要だから

積極的にシャープな人を伝道しコンバートしましょうと盛んに言われていました

高学歴の学生や名の知れた企業の社員がそれにあたります

いわゆる「エリート」ですが、英語的に「シャープ」と言いました

神の為になるならと教会員は受け入れ努力しましたが

特別扱いのようで多くの教会員はこの教えにつまずきました

わたしはシャープではない分類でしたので、この根拠を指導者に質問しましたが

ただ苦笑いされるぐらいで、たいした説明はなく

次のリーダーを立てないといけないというプレッシャーがあることはにじみ出ていました

しかし、ある方はパウロがシャープだったからと言っていました

ピリピ3:4~7やガラテヤ1:13、14などで

パウロはかつて自分はユダヤ教のなかで

優れて、熱心であったと証をしています

これらからパウロユダヤ律法社会のエリートであったから

彼の改心は大きな影響を与え教会成長に貢献したと解釈したと思われます

はたして、パウロはエリートのコンバートの方がインパクトがあり教会の為になるから

エリート伝道を勧めるためにこれを書いたのか?と検証する鍵は

文脈から著者の意図を探ることが必要です

その前の聖句にあるピリピ3:2やガラテヤ1:6~どちらもですが、文脈を意識して読み調べると

ユダヤ主義者が教会に入り込み、福音を信じるだけでは救われずユダヤ教も引き続き守ることが

救いの条件であるという間違った福音をひろめていることに対し

それを否定するために、パウロが証をしていることが分かります

ユダヤ教のエリートだった私がそれを否定しているのだからどうか理解してほしい

というのがパウロの意図であると解釈できます

これが第一義的解釈であって業や行いによる救いの否定です

エリートの方が教会への貢献度が高いという適用は自由ですが

解釈としては誤りです

ではエリート、非エリートどちらがいいのか?

聖書に明言されてないので、どっちでもいいです

 

この教会としては、教会は暗く宗教的で社会的インパクトのないの集まりといった

イメージを変えたい方針もあったかと思います

思い返せば、一流企業の人や、芸能人などシャープな人はたくさんいました

教会スケジュールを第一にするためキャリアをすてたり

シャープだからと特別に持ち上げられ教会スタッフになるために辞職するひともいました

ですが、思うようにスタッフとしての結果を出せずに(その方のグループのメンバーシップが増えないことなど)

今度はスタッフを辞めるように強いられる人もいました

数十人はいるかと思います

その後、教会を離れる人もいれば残っているひともいます

正しい福音の教会ならば、献身として神にお仕えすることですが

異端の教会なのでなんとも悲しいことです、、、

 

 

 

 

 

健全な信仰への道:歴史的事実と教理

【歴史的事実から教理を導きだしてはならない】

聖書を取り扱う際に上記の原則があります

聖書には、歴史的事実がそのまま記載されている箇所があります

神が行った御業、超自然的な出来事、登場人物の行い、過ち、家族関係など

様々なことがらが書かれています

これらのことから、神の御心や信仰など学ぶことは多くあるのですが

この歴史的事実をもとにして、牧会の為に教えを作り出してはいけない

という原則があります

なぜなら、事実として起きたことが書かれてあるのですが

必ずしも再度また同じことが起きるという原則を伝えている訳ではないからです

モーセのように海を分けることは無理でしょうし

七回周っても城壁を崩すことは起こらないと思われます

(超自然的なことを否定している訳ではありません、ご理解ください)

また、聖書の個人に起きたこと全てが適用すべき

教理の勧めではありません

戦争や一夫多妻制など、当たり前のことですが

歴史的事実から教理をたてないという原則が曖昧になると

指導者が思いつく、信徒はこうあるべきだ

という型にはめ込むための教えを作る目的で

都合のいい聖書の歴史的事実を引用して教理を作ってしまいます

そうなると、指導者が神の言葉を自分の都合で

拾い集め信徒を導くことになり

聖書から神の霊感に導かれるのではなく

指導者の霊感に信徒が導かれることになってしまい

危険な牧会となってしまいます

例としては非常に古い口伝律法ですが

第一サムエル24章のエン・ゲディの荒野でダビデとサウルの出来事によります

このときのサウルは誤った霊性にあり、ダビデを狙っていたわけですが

洞穴の奥に潜んでいたダビデとその従者のところへ、サウルが用を足すために

入ってきたとき、ダビデは殺すことが出来たのですが主が油を注がれた方に

手を下すことなどありえないとして追手であるサウルを生かすということから教理を作っていました

ダビデは悪いサウル王でも、神が選んだ王なので従順であったように

信徒はたとえ牧師が間違っていても神が選んだ牧師なのだから

常に従順であるべきだと教えました

冷静に考えると、間違った指導者に従わないといけないというゾっとする教理ですが

聖書の出来事から話されると信じなくてはいけないのかと思ってしまいます

このダビデがとった行動から学び、個人が実生活に適用することは自由ですが

牧会のための教理にすることは拡大解釈であって誤りです

信徒の心理としては、たとえ悪い牧師で違和感があっても

この牧師を批判することなく、忠実で従順であることは、その先におられる神に対して従順であることであると考えており

逆に、その悪い牧師を批判することは神を批判することと同等考えて声をあげなくなります

そうして、権威的な指導者が育ってしまい教会はカルト化します

確かに指導者には神の選びがあり、権威があります

しかし、指導者が神の言葉を正しく解釈し、

神の言葉を解き明かすときに権威があります

なぜなら、神の霊感を解き明かすからです

指導者個人に権威が与えられているわけではありません

教会内に聖書の歴史的事実からつくられた教理があるなら

バッサリ切り捨ててください、大丈夫です。