これも有名な話ですが
愛するというギリシャ語の動詞に
区別がつけられているということです
イエス様がまずアガパオー(神の愛)で聞かれ
ペテロはフィレオー(友の愛)で答えます
もう一度、
イエス様がアガパオー(神の愛)で聞かれ
ペテロはフィレオー(友の愛)で答えます
3度目は
イエス様がフィレオー(友の愛)で聞かれ
ペテロはフィレオー(友の愛)で答えます
そして、関係修復と弟子訓練がおわります
このやり取りは
A→B
A→B
B→B
で完結します
そうするとアガパオー(神の愛)より
フィレオー(友情の愛)の方がいいのか?
という疑問が生じますが
著者の意図はそこには無いと思います
少し日本語らしく違約して表現してみると
イエス様がペテロに対して 出来るのか?と問いただし
ペテロは 出来ませんと答える
再度、
イエス様がペテロに対して 出来るのか?と問いただし
ペテロは 出来ませんと答える
3度目に
イエス様がペテロに対して 出来ないのか?と聞くと
ペテロは 出来ませんと答える
世の中の価値観だと
出来ると答えるのが正解だと思いますが
出来ないと答えるのが正解だったということになります
聖書的価値観は逆説的真理を教えているので
その文脈に一致すると考えます
ペテロへの弟子訓練は
主の晩餐からすでに始まっていたようです
ヨハネ13:6弟子の足を洗うとこでは一番にしてもらていません
ヨハネ13:23、24過ぎ越しの食事では、イエス様の隣はヨハネであって
ペテロは下座の方にいたようです
少し謙虚にさせられる様になっていました
ヨハネ13:36~38ついには離反の予告をうけますが
この時のペテロは裏切るなんてとんでもない
私は主の為に命を捨てる!と言ってます
この時点で3度の質問を受けていれば
すべてアガパオー(神の愛)で答えていたと思われます
御国の鍵を渡されたペテロの中にはまだ
自己中心的な義(self righteouness)
独りよがりな頑張り
自力で頑張る心 などが根強く残っていて
主の僕としては
これらが砕かれ、変わる必要があった為に
イエス様は最後の弟子訓練を
行ったのではないでしょうか、、、
共につらい経験だったとおもいますが
”3度私を知らないと言う”預言の通りになりました
ペテロは復活のイエス様に最初に会ってます
その後10人の弟子と一緒に
そして11の弟子と一緒に会い
4度目にこのガリラヤ湖で再会し、やっと心を開いてます
ペテロが主を裏切ってしまった後悔や自己嫌悪
もう本当に無理!とあきらめてしまったように感じ取れます
逆に言うと、それほどに主イエスに真摯に熱い思いがあったことが
うかがえます
ヨハネ21:17でペテロは出来ると言いたいけど
言えません、ご存知のはずですとしか言い様がないといいました
命を懸けますと豪語していたペテロの心は砕かれていました
それをイエス様は良しとされたのです
主の為に働く僕の心の器は
自己中心的な自分の義ではなく
神の義によって立たなくてはなりません
モーセは自分の義で立ち上がろうとしましたが
殺人を犯し、同胞の仲裁に失敗し非難され
あっさり荒野へ出されました
40年経ち肩の力が抜け羊飼いとなり
神の器として整えられた時
神からの招きがありました
出エジプト3章~
燃える柴のところで召命を受けましたが〜
モーセは何度も出来ませんと言い
他の人でなんとか、、、と断っています
パウロは弱い時にこそ強い(2コリ12:10)と言っています
不思議なことですが、神は出来ない者を使って出来るように
されるお方の様です
追伸
この解釈はギリシャ語の違いから学んだことですが
愛のことばを細かく使い分けていたのか?
と疑問を持つこともあります
そこで思いついたのが
ヨハネの福音書1章1~18の前書きで”ことば”はロゴスというギリシャ語
で書いてあり、このギリシャ語のもつ意味から
”ことば”を解釈するのが
神学校の定説の様ですが
その解説は哲学のようで全くしっくりきません
ユダヤ教のラビ文章研究によると
この”ことば”という概念は
ラビたちが神学的に頻繁に用いていたもので
アラム語のメムラという概念と一致するというものでした
アラム語のメムラ(ことば)という概念を
なんとかギリシャ語で表現するならロゴスであろうとして
用いたという説がしっくりきます
自分の義→神の義を持つのが主の僕
というようなユダヤ的概念があって
それを表現するために
アガパオーとフィレオーを用いたのではないのかな
と私は考えました
これはユダヤ的研究者にでも聞かないと分かりませんので
個人的見解です