脱カルトと東京キリストの教会と元メンバーの私

脱カルト・聖書から学んだこと

その2⃣ ヨハネ21:15~19イエスとペテロ

これも有名な話ですが

愛するというギリシャ語の動詞に

区別がつけられているということです

エス様がまずアガパオー(神の愛)で聞かれ

ペテロはフィレオー(友の愛)で答えます

もう一度、

エス様がアガパオー(神の愛)で聞かれ

ペテロはフィレオー(友の愛)で答えます

3度目は

エス様がフィレオー(友の愛)で聞かれ

ペテロはフィレオー(友の愛)で答えます

そして、関係修復と弟子訓練がおわります

このやり取りは

A→B

A→B

B→B

で完結します

そうするとアガパオー(神の愛)より

フィレオー(友情の愛)の方がいいのか?

という疑問が生じますが

著者の意図はそこには無いと思います

少し日本語らしく違約して表現してみると

エス様がペテロに対して 出来るのか?と問いただし

ペテロは 出来ませんと答える

再度、

エス様がペテロに対して 出来るのか?と問いただし

ペテロは 出来ませんと答える

3度目に

エス様がペテロに対して 出来ないのか?と聞くと

ペテロは 出来ませんと答える

世の中の価値観だと

出来ると答えるのが正解だと思いますが

出来ないと答えるのが正解だったということになります

聖書的価値観は逆説的真理を教えているので

その文脈に一致すると考えます

ペテロへの弟子訓練は

主の晩餐からすでに始まっていたようです

ヨハネ13:6弟子の足を洗うとこでは一番にしてもらていません

ヨハネ13:23、24過ぎ越しの食事では、イエス様の隣はヨハネであって

ペテロは下座の方にいたようです

少し謙虚にさせられる様になっていました

ヨハネ13:36~38ついには離反の予告をうけますが

この時のペテロは裏切るなんてとんでもない

私は主の為に命を捨てる!と言ってます

この時点で3度の質問を受けていれば

すべてアガパオー(神の愛)で答えていたと思われます

御国の鍵を渡されたペテロの中にはまだ

自己中心的な義(self righteouness)

独りよがりな頑張り

自力で頑張る心 などが根強く残っていて

主の僕としては

これらが砕かれ、変わる必要があった為に

エス様は最後の弟子訓練を

行ったのではないでしょうか、、、

共につらい経験だったとおもいますが

”3度私を知らないと言う”預言の通りになりました

ペテロは復活のイエス様に最初に会ってます

その後10人の弟子と一緒に

そして11の弟子と一緒に会い

4度目にこのガリラヤ湖で再会し、やっと心を開いてます

ペテロが主を裏切ってしまった後悔や自己嫌悪

もう本当に無理!とあきらめてしまったように感じ取れます

逆に言うと、それほどに主イエスに真摯に熱い思いがあったことが

うかがえます

ヨハネ21:17でペテロは出来ると言いたいけど

言えません、ご存知のはずですとしか言い様がないといいました

命を懸けますと豪語していたペテロの心は砕かれていました

それをイエス様は良しとされたのです

主の為に働く僕の心の器は

自己中心的な自分の義ではなく

神の義によって立たなくてはなりません

モーセは自分の義で立ち上がろうとしましたが

殺人を犯し、同胞の仲裁に失敗し非難され

あっさり荒野へ出されました

40年経ち肩の力が抜け羊飼いとなり

神の器として整えられた時

神からの招きがありました

出エジプト3章~

燃える柴のところで召命を受けましたが〜

モーセは何度も出来ませんと言い

他の人でなんとか、、、と断っています

パウロは弱い時にこそ強い(2コリ12:10)と言っています

モーセもペテロもパウロも主の為に偉大な結果を残しています

不思議なことですが、神は出来ない者を使って出来るように

されるお方の様です

追伸

この解釈はギリシャ語の違いから学んだことですが

エス様とペテロはギリシャ語で会話したのか?

愛のことばを細かく使い分けていたのか?

そのようなヘブライ語アラム語で使い分けはあったのか?

と疑問を持つこともあります

そこで思いついたのが

ヨハネ福音書1章1~18の前書きで”ことば”はロゴスというギリシャ

で書いてあり、このギリシャ語のもつ意味から

”ことば”を解釈するのが

神学校の定説の様ですが

その解説は哲学のようで全くしっくりきません

ユダヤ教のラビ文章研究によると

この”ことば”という概念は

ラビたちが神学的に頻繁に用いていたもので

アラム語のメムラという概念と一致するというものでした

つまり、ヨハネギリシャ哲学者ではないので

アラム語のメムラ(ことば)という概念を

なんとかギリシャ語で表現するならロゴスであろうとして

用いたという説がしっくりきます

それを同じヨハネ福音書で適用すると

自分の義→神の義を持つのが主の僕

というようなユダヤ的概念があって

それを表現するために

アガパオーとフィレオーを用いたのではないのかな

と私は考えました

これはユダヤ的研究者にでも聞かないと分かりませんので

個人的見解です