脱カルトと東京キリストの教会と元メンバーの私

脱カルト・聖書から学んだこと

健全な信仰への道:歴史的事実と教理

【歴史的事実から教理を導きだしてはならない】

聖書を取り扱う際に上記の原則があります

聖書には、歴史的事実がそのまま記載されている箇所があります

神が行った御業、超自然的な出来事、登場人物の行い、過ち、家族関係など

様々なことがらが書かれています

これらのことから、神の御心や信仰など学ぶことは多くあるのですが

この歴史的事実をもとにして、牧会の為に教えを作り出してはいけない

という原則があります

なぜなら、事実として起きたことが書かれてあるのですが

必ずしも再度また同じことが起きるという原則を伝えている訳ではないからです

モーセのように海を分けることは無理でしょうし

七回周っても城壁を崩すことは起こらないと思われます

(超自然的なことを否定している訳ではありません、ご理解ください)

また、聖書の個人に起きたこと全てが適用すべき

教理の勧めではありません

戦争や一夫多妻制など、当たり前のことですが

歴史的事実から教理をたてないという原則が曖昧になると

指導者が思いつく、信徒はこうあるべきだ

という型にはめ込むための教えを作る目的で

都合のいい聖書の歴史的事実を引用して教理を作ってしまいます

そうなると、指導者が神の言葉を自分の都合で

拾い集め信徒を導くことになり

聖書から神の霊感に導かれるのではなく

指導者の霊感に信徒が導かれることになってしまい

危険な牧会となってしまいます

例としては非常に古い口伝律法ですが

第一サムエル24章のエン・ゲディの荒野でダビデとサウルの出来事によります

このときのサウルは誤った霊性にあり、ダビデを狙っていたわけですが

洞穴の奥に潜んでいたダビデとその従者のところへ、サウルが用を足すために

入ってきたとき、ダビデは殺すことが出来たのですが主が油を注がれた方に

手を下すことなどありえないとして追手であるサウルを生かすということから教理を作っていました

ダビデは悪いサウル王でも、神が選んだ王なので従順であったように

信徒はたとえ牧師が間違っていても神が選んだ牧師なのだから

常に従順であるべきだと教えました

冷静に考えると、間違った指導者に従わないといけないというゾっとする教理ですが

聖書の出来事から話されると信じなくてはいけないのかと思ってしまいます

このダビデがとった行動から学び、個人が実生活に適用することは自由ですが

牧会のための教理にすることは拡大解釈であって誤りです

信徒の心理としては、たとえ悪い牧師で違和感があっても

この牧師を批判することなく、忠実で従順であることは、その先におられる神に対して従順であることであると考えており

逆に、その悪い牧師を批判することは神を批判することと同等考えて声をあげなくなります

そうして、権威的な指導者が育ってしまい教会はカルト化します

確かに指導者には神の選びがあり、権威があります

しかし、指導者が神の言葉を正しく解釈し、

神の言葉を解き明かすときに権威があります

なぜなら、神の霊感を解き明かすからです

指導者個人に権威が与えられているわけではありません

教会内に聖書の歴史的事実からつくられた教理があるなら

バッサリ切り捨ててください、大丈夫です。