東京キリストの教会的に救いの条件としては
福音+弟子の条件(水の洗礼含む)+教会のルール
となるのではないでしょうか
弟子の勉強は救いの条件へとスライドし
弟子が救われる
として、弟子としてこうあるべき!
という律法が生まれることにつながります
ボストンムーブメントにおいて生まれた
信仰の土台というこの未信者の救いの計画という教義を
福音に付け加えてまで何故、作ったのか考えるときに
これは私の推測ですが、ボストンムーブメントの発起人達は皆さん
教会の牧会経験者であることから、その経験上、簡単に信じた者ものは、簡単に信仰から・教会から 離れる、、、として
これではマタイ28章の大宣教命令の実現は程遠い、、、
そこで、入信前にハードルを上げようとなったのではないでしょうか?
コミットメントの高いクリスチャンを求めて
弟子の基準を救いの基準とさせたのではと推測します
完璧な神の作品である福音に人間の手が加わったときに
もう神の作品ではなくなります
そして、この間違った救いの教理では人は救われません
ところが、人数が増えていくことを、実を結んでいると適用し
ヨハネ15章を引用して、実を結んでいるということは
イエスにつながっていることだと考え
自分たちは正しいと裏付けにしたのでは?
ですがもし、この教会の教義が正しいと仮説するならば
前回で書いたペテロが明確に救われた信仰告白はルカの9章ではなく
復活後に弟子たちに現れたルカの
24:36~の場面になり
イエス様が
罪の赦しの価値を上げるために、弟子たちに自分の罪を書かせ
十字架の苦悩を医学的見地から語り
心と体がどれ程傷ついたか話し
弟子として歩む完全な決心ができたところで
高いコミットメントを確認され
よしとされた者には赦すために、ヨルダン川で洗礼を授け救われた、、、となるのではないかと考えます
ですが、そんなことは書いてはありません
私たちの神様はそのような方ではないのです
ローマ5
:6 実にキリストは私たちがまだ弱かったころ、
定められた時に、不信心な者の為に死んでくださった。
:8しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
私たちの神様は、我々に条件つきで赦しを与える方ではありません
不完全な者に、無条件で与えてくださる方だと思います。
マタイの28章大宣教命令は今の私たちにも適用される大切なメッセージですが、この為に神様がなさること、そして、私たちが果たすべき使命、これらを聖書からよく学ぶことが大切と思います。