脱カルトと東京キリストの教会と元メンバーの私

脱カルト・聖書から学んだこと

弟子とは その7

東京キリストの教会的に救いの条件としては

福音+弟子の条件(水の洗礼含む)+教会のルール

となるのではないでしょうか

弟子の勉強は救いの条件へとスライドし

弟子が救われる

として、弟子としてこうあるべき!

という律法が生まれることにつながります

ボストンムーブメントにおいて生まれた

信仰の土台というこの未信者の救いの計画という教義を

福音に付け加えてまで何故、作ったのか考えるときに

これは私の推測ですが、ボストンムーブメントの発起人達は皆さん

教会の牧会経験者であることから、その経験上、簡単に信じた者ものは、簡単に信仰から・教会から 離れる、、、として

これではマタイ28章の大宣教命令の実現は程遠い、、、

そこで、入信前にハードルを上げようとなったのではないでしょうか?

コミットメントの高いクリスチャンを求めて

弟子の基準を救いの基準とさせたのではと推測します

完璧な神の作品である福音に人間の手が加わったときに

もう神の作品ではなくなります

そして、この間違った救いの教理では人は救われません

ところが、人数が増えていくことを、実を結んでいると適用し

ヨハネ15章を引用して、実を結んでいるということは

エスにつながっていることだと考え

自分たちは正しいと裏付けにしたのでは?

ですがもし、この教会の教義が正しいと仮説するならば

前回で書いたペテロが明確に救われた信仰告白はルカの9章ではなく

復活後に弟子たちに現れたルカの

24:36~の場面になり

エス様が

罪の赦しの価値を上げるために、弟子たちに自分の罪を書かせ

十字架の苦悩を医学的見地から語り

心と体がどれ程傷ついたか話し

弟子として歩む完全な決心ができたところで

高いコミットメントを確認され

よしとされた者には赦すために、ヨルダン川で洗礼を授け救われた、、、となるのではないかと考えます

ですが、そんなことは書いてはありません

私たちの神様はそのような方ではないのです

ローマ5

:6 実にキリストは私たちがまだ弱かったころ、

定められた時に、不信心な者の為に死んでくださった。

:8しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。

私たちの神様は、我々に条件つきで赦しを与える方ではありません

不完全な者に、無条件で与えてくださる方だと思います。

マタイの28章大宣教命令は今の私たちにも適用される大切なメッセージですが、この為に神様がなさること、そして、私たちが果たすべき使命、これらを聖書からよく学ぶことが大切と思います。