脱カルトと東京キリストの教会と元メンバーの私

脱カルト・聖書から学んだこと

ガラテヤ人への手紙から 5の1

これまで、救いについて

何度も、信じるだけであること

○○○○しなくては救われないは、福音の添加物であって

異質なものになってしまうことを書いてきましたが

ガラテヤ3:6~22

においてその根拠をパウロは解説しています。

ガラテヤ3:6~9から信仰の父アブラハムが登場します

割礼を受けるように勧めていた、ユダヤ主義者の動機として

割礼はモーセの律法でもありますが

そのまえに、ユダヤ人としてのアイデンティティである

アブラハム契約のしるしであることが考えられます

これはユダヤ人の民族的文化を理解する必要がありますが

おそらく、ガラテヤ地方で異邦人が信仰に入っていることを耳にした

エルサレムにいるユダヤ主義者たちは、我々の主(ヤハウェ)を異邦人も信じるならば

是非ともアブラハムと共に受ける祝福を受けてほしいと考えたのかもしれません。

漫画や映画化するならば、ユダヤ主義者が宗教的プライドギラギラで陰謀として描いた方が悪役っぽくなるかもしれませんが、ちょっとニュアンスが微妙で

そんなに分かり易い悪意が感じられたなら、ガラテヤ人達も拒否したのではないかと思います。

ユダヤ主義の口から、”あなたのためだから、、、ユダヤ人のようになりましょう”

といった善意のようなものが

感じられたのかもしれません。

元メンバーの私も、はじめて教会に誘ってもらい聖書を教えてもらった時を思い出すと

善意・誠実・献身・友情を感じその時の体験を宝のように思っていました

その為、東京キリストの教会を否定することはそれらをも否定することになるので

正しい解釈が分かり始め、信仰の土台の間違いに気づきはじめていたころは

感情のバランスが崩れそうだったことを覚えています、、、

ガラテヤ4:16,17でパウロは福音の添加物を唱えることは善意とは呼ばないと

はっきり否定しています

また、ガラテヤ4:17、使途20:30にもありますが、このような指導者の特徴は

自分の方に引き込もうとすることがあるようです、私の体験的には、自分がどう感じているかをやたらと話す、自分が悔い改めていかに変わったをやたらと話す、自分と考えの違う他の指導者を陰で批判する、その指導者にしか受けられないカウンセリングがあるなど沢山あったなと思います

自分も耳が痛いことですが、聖書解釈とは遠く離れた別の畑で、考えや・感じ方をア-でもない、コ-でもないと頑張っては、疲れての繰り返しです

2000年前も現代も間違った解釈の異端・カルトの本質は同じだなたと

つくづく実感させられます

次回パウロからアブラハムとともに祝福を受ける異邦人(私たち)について

旧約聖書から救われる(義とされる)原則を学びたいと思います。