ガラテヤ人への手紙から 3

ガラテヤ人への手紙の特徴として挙げられるていることに

パウロが書いたこの手紙には他の手紙との違いとして

誉め言葉がない

賞賛の言葉がない

感謝の言葉が無い

祈りの要請が無い

信徒に対して「キリストにあって」「キリストのうちにあって」いわゆるIn Christ という神との関係にあるという言葉が無い

パウロの同労者の名前が出てこ無い

これらのことが他の教会にあてたものと比較すると

欠落しており、パウロは非常に感情的に嘆きを込めて書かれたと言われています。

1:6・7 にあるようにほかの福音、別の福音に乗り換えること、

福音を変えてしまおうとするものにたいして、

パウロが同じ信仰者のグループの問題の一つに取り組もうとして書いたのではなく

全く、異質のもの別物として扱っているように感じます

ガラテヤ1:8・9には2回も”のろわれよ”という言葉が使われており

この福音及び救いの条件に対する教えの重要性が強く伺えます

ガラテヤ1:10 「人々に取り入ろうとしている、、、」「人を喜ばす、、、」とあるようにパウロにはこのようなウワサや批判がユダヤ主義者から広められたと思われます

高いハードルを示すユダヤ主義者の教える救いに比べて、

パウロの伝える福音が信仰と恵みのみで救われるもの、信じるだけであることから

パウロは人々が受け入れ安い簡単な救いの道を示して、人気でも取ろうとしているかのように揶揄されていたのかもしれません。

私たちも気を付けなければいけませんが

救われる道を示されるとき、

一見、簡単に思われるものと

難しく、努力と頑張りが必要と思われるものと

どちらが真理と問われると

難しい方!と言うことが正しいような価値観を持ち合せていないでしょうか、、、

信じるだけでは十分ではない、弟子としていばらの道を歩む事、その覚悟と決心があなたの救いを達成するに見合う道だと言われて納得してないでしょうか、、、

そもそも、努力で救われるなら

神様も十字架も聖書も何も分かっていないということです

パウロは1:11で「私が述べ伝えた福音は人間によるものではありません」

1:12「ただ、イエスキリストの啓示によって受けたのです」

と明言しています

東京キリストの教会においては、イエスキリストの啓示による福音は

簡単すぎるから、難しくしたいのかもしれません、、、

 しかし、間違った福音を広めることが

のろわれよと言われていることを

厳格に受け止めなければならないのではないでしょうか。