ガラテヤ人への手紙から 5の2

 ガラテヤ3: 5あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。 6それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

パウロは異邦人であるガラテヤ人たちに旧約聖書から例をあげて弁明をします

信じるだけで救われることは、突発的にパウロが考え教えているのではなく

旧約聖書にすでに教えられていると言っています

創世記15:1~6 の:6を引用していますが、その内容は

啓示・・・神が、無数の星のようにあなたの子孫はこのようになる と語られ

応答・・・アブラハムはそれを信じた

そして義とされた

パウロはこの原則を提示しています

:7~14の間に何度も

信仰によって・・・、や信仰・・・という言葉が使われますが

要するに、信仰とは

”神の啓示に対する応答”

であると言う事を認識しなくてはなりません

その具体例がヘブライ人への手紙11章に多くあります

各時代や人物によって、”啓示”の内容は異なっていますが

神が語られて→人が応答する(信じる)それが信仰=そして義とされる

この原則は聖書において一貫して変わりません

現代の私たちは星を眺めて自分の子孫がこのような大家族になると信じても救われません

使徒2章のペンテコステ以降の現代の私たちに語られている啓示の内容は

キリストが私たちの罪の為に十字架に架けられたこと、死んで葬られ、3日目に復活したこと

このことが神が今の私たちにお示しになった啓示となり

原則に基づき

それを応答として信じて救われます、

そのため救いは信仰と恵みよると言われるのです

ところが、東京キリストの教会では

この”信仰”が違った解釈で適用されています

信仰とは、へブル11:1望んでいる事柄を確信し、

とここだけ切り取って、自分が望むことを現実化させること

と教えられています(文脈から神様からの啓示が抜けてます、、、)

常に教会の人数成長を追い求めていましたから

その為のゴール達成が必要でした

例えば、ある人が日曜礼拝に5人の訪問者を連れてくるとゴールをたて

それを達成すると、その人は信仰があると評価されます

しかし、結果を出せずにその指導者のグループに人数の成長が無く

減少が続くと信仰が無いと評価され、リーダーシップから降ろされる

こともありました

神様の為に何にか考えて望む!信仰だ-と頑張るわけですが

これは、信仰ではなく思い込み

であって自己啓発的なものと同等だと私は思います

夢やビジョンを否定するわけではありませんが、信仰=思い込みの実現、という解釈で聖書を読み進めていくと、文脈からそれてしまい、自分の思いや考えを読み込んでしまうことになってしまう為、注意が必要だと思います。

最近は、昔ほど派手なプレッシャーはないそうですが

この間違った解釈からくる

東京キリストの教会的口伝律法は今も健在だと思われます

行いによって救いを得ていると信じているうちは

何かしら行いからの結果が出続けていないと

何とも言えない不安が付きまといます

その不安はもしかすると、方向転換を導くサインなのかもしれません、、、。