新約聖書のなかで最初に書かれたものが
このガラテヤ人への手紙と言われています
第一回伝道旅行(使途16:6)
第二回伝道旅行(使途18:23)
に名前があがっているように
パウロ自身が福音を語り自分が設立した諸教会ですが
初代教会の論争として最初に大きな課題となったことが
この手紙のテーマと考えても間違いではないかと思います
その内容とは救い及び福音に関することで
(ルカも使途の15章において同様の問題がエルサレムで使徒会議にかけられたことを書いています)
パウロはガラテヤ1:4・5において福音をかたり
(福音とはイエスキリストが私たちの罪の為に十字架にかけられ死んで、葬られ、三日目に復活したこと を信じて救われる)
1:6~9において他の福音はないと断言しています
”他の”という意味は福音Aや福音Bという同質の意味ではなく
異質なものを指しています
それはエルサレムからきたもとパリサイ派のユダヤ主義者と呼ばれる人たちが
教えてまわっていた誤った救いの条件ですが
彼らは、福音を信じるだけでは救われない
・割礼を受けること
・ユダヤ人のようになること
(モーセの律法を守ること・ユダヤ人のように口伝律法を守ること)
これらを福音に付け加えて救いの条件としていました。
(使途15:1、15:5、ガラテヤ2:3、3:6~14など)
しかしパウロは
ガラテヤ1:11・12において
人から と イエスキリストからの啓示
を対比させて1:13~2:10までにおいて
パウロが伝えた福音はイエスキリストから直接の啓示であることを強調し
説明しています
と同時に福音に何かを付け加えたものは
人からのもので、人工的なものであること
そして、3:1~6において
福音に何かを付け加えるならば、
イエス様の十字架の死では不十分だと
足りない、それだけでは救われないと言っていることだと
ガラテヤの人たちになげいています
東京キリストの教会のものとよく似ていると私はおもいます
福音を信じるだけでは救われない
付け加えて
洗礼を受けなければならない
弟子でなければならない
教会のルールに従うコミットメントが必要
これらもまた人工的な救いの条件でありパウロが否定していることが
そのまま適用されると私は思います
そうは言っても、福音が含まれているから大丈夫では?
と思われるかもしれませんが
何かを足しても、引いてもその教えに
救いはありません
2:21
”もし、人が律法のおかげで義とされるとすれば、
それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。”
救われる為だと信徒を締め付け、自由を奪ってしまう
人工的な業や行いの条件で救われるのではありません、
神の福音に信仰で応答する、信じるだけです。