マタイ28:18-20
それゆえ,あなたがたは行って,あらゆる国の人々を弟子としなさい。
また,わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように,
彼らを教えなさい。
昇天まえのイエス様の最後の言葉で大宣教命令と呼ばれている聖句ですが
東京キリストの教会の弟子の学びでは
ここに書いてある順番通りに
1、まず弟子にならなければならない
2、そしてその弟子が水の洗礼をうけて救われる
3、救われた弟子は、聖書を守るように教えられる(ディサイプリングを受ける)
と解釈し教えています、
水の洗礼が闇と光の境界線となっている為、弟子が救われるんですよ!となり
その結果、弟子であることが救いの条件の一つに加えられることとなります。
それはこのテキスト全体の構成に反映されており
以前に書きましたが
①基本的な聖書知識、②イエス様の人格(神格)、③イエス様の復活
④キリストの弟子とは(弟子となる決心)
⑤御言葉の学び(聖書を人生の土台とする)
⑥罪と闇(自分の罪に砕かれて、失われていることを認識する)
⑦十字架と贖い(十字架に砕かれる)
⑦光と救い(救われたいと願い洗礼を望む)
⑧教会について(御国とは教会、メンバーとなること)
⑧まで到達したら
教会スタッフと面談し、確信を確認され、良しとされたら
⑨水の洗礼をうけて救われる
この⑨の段階でいよいよ救われますとおしえますから
この弟子の勉強を終えて実際に弟子の生活を始める④の段階ではまだ救われていないことになっています
この聖句が救われるための段階を表す
救いの条件のような印象を与えます。
はたして、そうなでしょうか?
この聖句は日本語ではいくつかの動詞があり
行く・弟子とする・授ける・教える
とそれぞれの動詞が独立しているように読めますが
ギリシャ語では
動詞は”弟子とする”の一つだけで、一文にまとまっています
その他は文法的に分詞形で英語でいう○○ingになっており
弟子とするという動詞に掛かっています
行くことも・水の洗礼を受けることも・御言葉を教えることも
弟子の条件を表しています。
ユダヤ人の彼らは、そもそも伝道しません。
アブラハムの子孫というだけで救われていると思っていたので
その伝道という概念がありませんでした
その彼らに行きなさいと言われたのです
それゆえ大宣教命令と呼ばれるようなっています
ユダヤ要素満載ですが締めくくりにはこの聖句で終わることになり
地の果てと言われる異邦人世界へと広がりをみせる
架け橋のように思えます
それは、この弟子たちの派遣であり
世の終わりまであなたがたと共にいると言われたイエス様の言葉が
その保障ではないでしょうか
まとめますと
この聖句は弟子が救われるという
救いの条件を含んでいるもではなく
大宣教命令であり、実現していく弟子の条件を表して
いると私は思います。
キリストの弟子についての学びが、弟子が救われる
と教え、弟子として歩むことが救いの条件であるかのように
解釈がすり替えられていることに問題があります
弟子の条件は救いの条件ではありません。