弟子とは その6

これまで、東京キリストの教会的テキストの弟子の勉強の問題点を書いてきました

ユダヤ的に弟子とは、フォロワーや学ぶものという意味があります

さらに、信じること と 行い は現代的な一般的宗教観から区別しがちですが

ユダヤ的にはコインの裏と表のようであり一つのものと考えられます

信仰の父と呼ばれるアブラハムの模範が

ローマの4章とヤコブの2章で裏表の一つであるように

聖書全体の文脈でそうなっており信じたから行いが伴うことになります

さて、イエス様が弟子の条件について教え訓練されています

いつそうされているのかと考えるとき

ルカの福音書を引用するのが最適と考えます

ルカは歴史家としてイエス様の生涯を時間軸に正しくかいてあり

誕生から昇天まで年表として使用できるからです

他の福音書に書かれた同じ出来事はルカの福音書に照らし合わせて

いつイエス様が語られ、行われたのか知ることができます

では弟子の条件が教え始められるのはいつになるのかと言いますと

ルカ9:21~になります 9:57~、14:25~など

大きく変わっていることは

エス様がこの前までは、大衆伝道で人々に信仰の有無を求めることよりも、御自分がメシアであることを公にあらわしていますが、

後に、大衆から弟子の訓練にシフトされています、たとえ話が急に増えます

その分岐点に9:18~20のペテロの信仰告白があります

詳しくはマタイ16:13~20にありますが、ペテロはイエス様が神の子メシアであることを言い表しました、前回書きましたがこの時点での福音に応答したことになり

明確に救われました、そして教会の鍵を預かることになりました

それから、イエス様は弟子の条件を教え始められたことになります

ようするに、生まれた赤ちゃんがいつまでも赤子でいないように導くように

救われた者に対して語られていることです

それらを現代に適用するならば、

福音を信じて救われた者が(聖霊バプテスマを受けて、賜物として聖霊を授かった者が)基本的な弟子の条件を学び、自発的にイエス様に従いたい・フォロワーとして歩みたい・弟子になりたいと思うときに水による洗礼を受けてその第一歩を踏み出すとなるのではないでしょうか

東京キリストの教会的にはその逆が教えられています

聖書の文脈を無視することは神の霊感を無視することに

なるのではないかと思います、、、