ヨハネ8:31 イエスは御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当ににわたしの弟子である。
この聖句も未信者の弟子についての学びに使用されます
信じたユダヤ人=信者と適用し
言葉にとどまるなら=弟子と適用し
この2者を対比させます
信じた人にあえて言われたのだから、
信じるだけでは十分ではない!と教えます
言葉にとどまる→聖書を読んで実行する→弟子とは行動する人!と教えます
そして、前回のことにも関わりますが
アメリカ一般の自称クリスチャンを批判する為に
この信者という言葉を用います
信者=サンデークリスチャン 日曜に教会にいるときだけそれらしく振舞い、礼拝が終わるとさっさと帰宅 その他、月~土曜は世の中の人と何ら変わりない生活を送り信仰生活を行わない そして、日常的な罪がありつつもクリスチャンと自称する
信じてるだけでなにもしない人=信者 と落としていき
そうであってはならない、弟子になりましょうとなるのです
少々、大げさに書きましたがボストンムーブメントの本質はここにあるとおもいます
ですから、国際キリストの教会及び東京キリストの教会では
自分たちのことを信者とは決して呼びません
信者という言葉にネガティブなイメージをもっているからです
私も最初に礼拝に参加した時を思い出すと
皆さん元気で明るく与えていい人に見えましたので
陰気なクリスチャンイメージはなかったとおもいます
ある意味いい驚きで、これが弟子か~!とうなずきもありました
それらが重なって、信者≠弟子 信じるだけでは十分じゃない!
と納得していたように思います。
ですが、この適用には問題があると私は思います
他社を批判して自分たちを正当化する方法なので
納得してしまうと解釈の見分けが非常に難しくなります
そしてその影響を例えるなら、ボクシングのボディーブローのよなもので、じわりじわりと効いてきて、いつしか自分の足で立てなくなるようなものだと思います
信者≠弟子 信じるだけでは十分じゃない!は
じわりじわりとカルト化する信仰の教えです。
なぜなら、この適用を行っている弟子の学びは
弟子の条件が救いの条件へとすり替わっていく流れのなかにあります
弟子が洗礼をうけて救われると教えるわけですから
救われたいなら、弟子にならなければいけなくなり
信じるだけでは弟子になれないなら
信じるだけでは救われない となるのではないでしょうか、、、
あなたまだ救われていませんよ!と促されている段階での
このような教えは水の洗礼を受けて救われましたよ
となってもその弟子としての行ないが救いの土台のようになるので、常に何かしらの行いを求めるようになり
いつも信じるだけでは十分じゃないと
自問自答し辛い辛い信仰生活を送ることになってしまうのです
一見、魅力的なクリスチャンに見えたとしてもです。