教会のカルト化の訳を考えていきますが
私が以前、所属していていた
東京キリストの教会での体験を基にしていますので、聖書を解釈した上での
一つの適用と捉えてください。
この教会は聖書解釈においては、間違った福音を唱える異端の教会にあたるので
前回のグラフでの教会A(A´)、E,D異端グループに入ります
その為、過去にも学んだガラテヤ人への手紙から再度学びたいと考えました
ざっくりですが、パウロが書いたガラテヤ人への手紙は、福音の純粋性を
強調していて、1コリント15:1-11が福音がそれにあたり、
その福音に律法(行い)を付け加えるならば、福音では無い異質なものになることを
明言しています
もしこの手紙が無ければ、福音は混ぜ物だらけにされて、
ユダヤ教の一派になっていたかもしれません
ガソリンと電気の二つの動力が絶妙に連鎖しながら走る優れものですが
福音がこのように、恵みと行いで完成されると考えるのでは、
恵みからおちることになります(ガラテヤ5:4)
パウロ書簡の特徴として、まず神学的議論の展開をし、そして実践的議論にはいります
この手紙では1~4章が神学的議論(1~2章はパウロの自身の経験に基づく)
5~6章が実践的議論(適用の勧め)になっています
神学的議論から実践的議論への文脈移行の最後にハガルとサラを用いて
比喩的な意味を解説しています(ガラテヤ4:21-31)
・ハガル(奴隷の女)・・・肉的・人間的によってイシュマエルを生んだ
・サラ(自由の女)・・・約束・超自然的・霊的によってイサクを生んだ
自由の契約(アブラハム契約・新しい契約)
カルバリの丘によって(天のエルサレム)
約束の子、自由の子(天の御国の市民)
ガラテヤ4:28でパウロは
クリスチャンは律法、肉や人間的行い、業、によらず
超自然的に、新生した、約束の子である
それ故に創世記21:10,12を引用して
女奴隷とその子を追い出せと呼びかけました
霊的な意味はもとより
呼びかけています
(ハガルとサラのハイブリッド式はあり得ないです)
ガラテヤ5章になり実践的適用に入るわけですが
5:1-12において、これまでの神学的議論を簡潔にまとめ
再度、具体的に短くし注意喚起してあります
そして、5:13から適用が始まります
5:13-24において、共存することのないハガルとサラが対立したように
肉の業と御霊の実が対立されます
その冒頭5:13では
13 兄弟 たち。 あなた がた は 自由 を 与え られる ため に 召さ れ た の です。 ただ、 その 自由 を 肉 の 働く 機会 と し ない で、 愛 を もっ て 互いに 仕え 合い なさい。
多くの解説書を読むと、これは律法から解放され自由が与えられたのだから
「どんな罪も赦され、天国に行ける」からと、その自由の意味をはき違えて
何をしてもいいわけでなく、自己中心的な肉の欲や罪の赴く生活をしないで
自由と放縦を間違えないようにする生活の勧め と解説されているようです
クリスチャン生活の為に大切な適用だと思いますので、
否定はしませんが、、、
この手紙の文脈が、初代教会で問題の一つであった
何でも赦されるから罪を好き放題犯してもいいといった
であれば、それもありかと思いますが
この手紙は一貫して、その真逆の律法主義への警告を取り上げており
しかも、緊急性をもって書かれている為にテーマが複数とは考えにくく、
絞られていると考えるのが普通であって、突然文脈が変わるのはおかしく
5:14・18に再度、律法という言葉が出てくるように
あくまでもキリストの自由をつけ狙う律法主義の文脈ではないかと私は思います
しかし何故、突然文脈が変わったかのように
5:13肉の働く機会・5:16肉の欲望・5:17肉の望む・5:19肉のわざ
などの人間の罪の性質が問題のテーマに取り上げられるのか?
という疑問がわいてきます
パウロの教会にあてた書簡の特徴は
その教会に訪問していること、また後に訪問していること
手紙を書くときはパウロ一人ではなく、複数の協力者があって
その教会の情報を得て書かれていることにあります
ということは、5:15のように、この教会のクリスチャンの間に教義の論争の問題と
上記のような肉的な罪の問題がガラテヤ地方の教会にあったと
推測されます
また著者が、熱心なもとパリサイ的ユダヤ教徒だったパウロは(ガラテヤ1:13-14)
熱狂的信者で律法的であった体験があることをふまえて
5:13に戻ると”肉の働く機会”に注目することができます
この”機会”と翻訳されている単語はアフォルメイというギリシャ語で
①出発点、敵地に築く作戦基地、上陸拠点、(遂行の)手段
➁原因、機会、折り、口実
この機会が採用されていますが、同様の単語は
ローマ7:8、11でも使われており
パウロは肉的罪の性質に関して軍事的用語を用いることから
この手紙の読者は単なる機会、チャンスというよりは
肉的罪が攻撃を仕掛けるために、上陸拠点に集結し、力を蓄え
機会をうかがっている
といったニュアンスを受け取ったのではないかと私は考えます
つまり、ガラテヤの諸教会に入り込んだ律法主義は
福音を信じるだけでは救われず、モーセの律法とその口伝律法を
行い、守らなければ救われない、
異邦人なのに、ユダヤ人のように歩まなければならない
信徒の頭には、
常に○○しなければならない、○○しなければ救われない
と律法と口伝律法があたまを支配していくようになっていったと思います
新生する前のパウロはこの状態の経験者であることから
体験的に律法主義に歩み始めると
同時進行で、肉の性質の活性化が始まり、攻撃を仕掛けてくることを
教えています(5:17)
この教会で罪が横行していることを、知ったパウロは
律法主義による肉的罪の活性化が起きていることを教えたかったのでないかと
思います
他の教会にあてたパウロ書簡にも
罪の性質・救われる前の古い肉の性質についての教えがあります
エペソ5:1-5、コロサイ3:5-11
ですが、このアフォルメイは使われていません
ローマ7章とガラテヤの5章の律法主義への警告の時につかわれています
つまり、行いが紛れ込んだ間違った福音を受け入れてしまい
律法主義に陥った教会は救われる為に、その多くのルールの故に
○○しなければならないと熱心で頑張っているように
見えますが、その見た目とは裏腹に
心中では、罪が攻撃の機会をうかがってており基地に集結しつつあることになります
東京キリストの教会では求道者が救われる為のプロセスの中に
弟子として○○しなければならない、洗礼を受けなければならない
そうでなくては受けた救いを失うかもしれないと教えられるので
常に○○しなければならないという、律法主義に支配されています
その為、肉的罪の活性化が起きていました、諸問題はあったのですが
弟子訓練の厳しさと、その弟子訓練パートナ-シップによるガス抜きで
なんとかしのいでいました
ですが、2003年にこの教会は信徒の不満と締め付けが爆発し大混乱がおきました
その際にリーダーシップへの不信・不満によって
弟子訓練パートナ-シップも自然崩壊し、
これまでの締め付けから信徒は解放されたのですが
その時の状態は、まさに、本当に、見事に
ガラテヤ5:19-21にあるそれぞれの肉のわざが明になりました
個人攻撃は避けたいので、具体的な内容の記載は避けますが
ひどく明らかでした、
例えば、泥酔であれば、たまたま飲みすぎた-ではなくアル中的です
敵意~分派の項目に至っては、いまだにその傷が癒えていない人が多くいます
もちろん100%すべてのメンバーではありませんが
その影響をすべてのメンバーは受けました
わたしの個人的な印象は、東京キリストの教会への
コミットメント、献身度の高かった人ほどその傾向が目立ったように思えました
東京キリストの教会では
求道者へ自身の罪についての聖書スタディがありますが
その際にこのガラテヤ5:19-21をもとに
思い出せる限り自分の罪を書かせ叱責すのですが、、、
何とも、皮肉なことです。
結論
福音を攻撃する異端への警告を行ってくださった
ガラテヤ人への手紙から
信じるだけの福音に、行いや業を混ぜ合わせ
異質なもので救われようとするならば、
律法主義が肉のわざを明らかにさせ
教会はカルト化する
ガラテヤ5:9
9 わずか な パン種 が、 こね た 粉 全体 を ふくらませる の です。