前回、ローマ6:3-5について書かせていただきましたが
東京キリストの教会の解釈に問題があるわけで
この聖句はとてつもない素晴らしい聖句で
救われ新生したクリスチャンが過去の罪が赦され、これから犯す将来の罪も赦されると知りつつも、取り扱わなくてはならない自分の罪の問題に対して希望の聖句だと私は思います。
ここの6:3-11に書かれていることは
再度さかのぼりますが洗礼者ヨハネがマタイ3:11,12において
洗礼者ヨハネが私は水で洗礼(バプテスマ)を授けているがこの方(イエス様)は聖霊と火で洗礼(バプテスマ)を授けると語りました、
このことを預言してしていることになります。
この時点ではまだ聖霊が下っていないので復活後の使徒2章ペンテコステまで待つこととなりますが
ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けましたが、間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられると言われました。
ついに使徒2章ペンテコステの日に風のような音と共に炎のような舌がわかれて聖霊が降りました。
大切だと思うのは、2:4に皆が(使途)が聖霊に満たされたということだと思います
これまでの霊による導きや語りではなく、聖霊の内住であり一体化で
イエス様の言われた聖霊による洗礼(バプテスマ)となりました。
ペテロも使徒10章でコルネリオが救われる場に立ち合い
使徒11:16でそのことをエルサレム教会に報告する際に使徒1:3-5においてイエス様が言われたことを思い出しましたとかたりました。
2章のペンテコステ以降、教会時代と言われる現代にまで
福音を聞いて信じ信仰により応答したものが信じた瞬間に霊的に起きていることが
ローマ6:3-5になります。
1コリント12:13にもありますが
私には東京キリストの教会時代において全くなかった概念です。
この教会でかつて水の洗礼を受けた日を霊的誕生日と呼び
救われた日としてきました。では、自分はいつ救われたのか?
何年何月何日何時何分何秒?
正直分かりません。このことは神様からの一方的な恵みであり賜物なので、むしろ分からなくていいんだと私は思います。でもローマ6:3-5のことが自分におきていると信じています。
実感が有るのか無いのか分かりません、おそらく人によるのでしょう
東京キリストの教会の未信者の聖書の勉強は感情の動きに力を注いでいたと思います。
罪の学びで心砕かれているか?十字架の学びで心砕かれているか?その度合いを人間が計り救われるにふさわしいか判断していました。
人を計りながら自分も計っていました。
まだ十分ではないと判断した場合
時には厳しい言葉を浴びせ、人為的にこころ動かすようなこともしてしまいました。
そういった感情の高まりや動きを確信とすり替えられ、それを求めるようになりカルト的信仰へと進んだのかなと今思います。
決して感情におきたことすべてを否定することではありません
間違った聖書の解釈の土台からせっかくのそういった出来事が訳が分からなくなり残念な結果を生んでしまう
サタンによって徐々にすり替えられ低空飛行を続けさせられるということだと感じます。