洗礼は救いの条件ではない

以前、間違った解釈における、救いの入口と出口と書きましたが
その出口にあたる洗礼の教えについてです。
この教会で行っている、訪問者が教会員になる聖書の勉強プログラムのゴールがこの洗礼になります。
洗礼を授ける。水に沈められ水から出てきたときに、救われました、と教えます。
結論はタイトルにあるようにこの教えは間違っています。
ですが、この洗礼の教えは私も非常に大切にしてきたもので20数年信じていましたので、これが間違いということは驚きもあり受け入れるのに時間が必要でした。
私はなんの知識もないまま、初めて教会に足を運び、礼拝後に”今日は洗礼がありまーす”とアナウンスがあり一連の洗礼を見ることとなりました。その時は自分が洗礼を受けることは考えないまでも、こうやって救われてクリスチャンになるんだな-と印象に残りましたので、勉強プログラムの信仰の土台が進み救われたいならこの洗礼ですよと教えられた時はなんの疑いもなく信じてしまいました。
洗礼を受けた人は救われている、受けてない人は救われていない、ということが東京キリストの教会の教えになっており洗礼を受けることは救われる為の大きな条件となっています。
これからこの誤りに気付いたプロセスを書きたいと思います。