次に使徒2:38についてですが
東京キリストの教会では
使徒2:36~38 が十字架のメッセージを聞いて→心うたれて→洗礼受けて(水の洗礼)→罪赦されて救われる
という教義になっており、水の洗礼が救いの条件であることを
この聖句から教えます。
:38だけ読むと確かに再度そーかなーと思わされます。
この箇所は少々難解で結構悩みます。
共同訳、新改訳、口語訳など同じ翻訳文になっており、英語も同様です。
新改訳2017で翻訳に変更があるかな、、と期待しましたが変化なしでした
個人的にけっこう気掛かりな聖句でしたので
他の教会の牧師さんに質問してみたりしましたが
どうしてそんなに気掛かりなの?といった感じで少々温度差を感じることがありました。救いに関してこの聖句にあまり関心を寄せたことが無いように思えました。
おそらくですが、私が伺ったプロテスタント系の牧師さんはちゃんとアメリカや日本の神学校で体系的に神学を学んでおり、聖書は一貫して業による、行いによる救いがないことを当たり前に信仰している為かなと思いました。テトス3:5、ローマ3:21-30ほか
東京キリストの教会の牧師さん達は神学校には行かないで、牧師さんなので、
例えるなら、医学部に行かないで病院に就職した人が、色々と結果を残すか、期待されてか、頑張ってかして認められて医者に任命されるようなもでしょうか。
私も直接的に牧師さんから神学よりこの教会のほうが優っていると言われました。
もちろん神学にも色々とありますがこの救いの件は(救済論)
500年もまえにルターの宗教改革によって答えが出ていることなのですが
残念です。
また、カルト専門の牧師さんや全国の福音派からカルト的な教会まで様々なところに関わった経験のある方は、こちらの質問の意図を汲み取ってくれるのでとても助けられました。
そのことも含めて今私が思うこのペテロのメッセージにおける使徒2:38について
はたして、水の洗礼を受けなければ罪の赦しを受けられないのか?
次回書きたいと思います。