東京キリストの教会では
ローマの6:3~5この聖句を引用して
洗礼槽に沈められて水から出てくることが
闇から死んで復活し光に入ること
救われること
だから洗礼をうけて救われると教えます。
この箇所だけ示されるとあーそっかーと思ってしまいます
ですが、解釈には文脈が大切です
パウロが書いたローマ書はしっかりした文脈があり順序立てて構成がされています
1:1~17 挨拶・テーマ
1:18~5:21 義認(人はどのようにして神と和解し義(無罪・救い)とされるのか
①有罪宣言
②義の提供
③義認と律法の関係
④アブラハムの例話
⑤義認の喜び
⑥適用
6:1~8:17 聖化(キリスト者の恵みによる霊的成長)
①聖化の土台
➁義の奴隷
③律法からの解放
④聖化の力(聖霊)
8:18~8:39 栄化(聖化の完成した状態)
という文脈の中での位置付けを理解することが大切と思います。
パウロは 5:21までに信仰によって義とされる(救われる)ことを語り終えています。
そして、”では、”と話が変わり6:1に当時の神学的論争の質問を想定し
それに答えるために解説が6:2から”決してそうではない、、、”とはじまり
6:3~から福音を信じ救われた時に自分のなかで霊的にどのようなことが起きていたのかを
絵に書いて解説するかのように書いています。
そして、この文脈は6:11で終わります
もし、これが水に沈めることを指しているならば
このようにしなさい。と締めくくるはずですが
考えなさい。(新共同訳)・認めなさい。(新改訳2017)
と締めくくられます。
この言葉はロギゾマイというギリシャ語で
算数の用語でよく計算して答えを出しなさいという意味合いで使われており
知的理解について語られていることと思います。
さらに、4章1~12にてアブラハムの模範が語られていますが
:10にはアブラハムの信仰が義とみとめられた(救われた)のは割礼を受ける前のことです。と書かれてあり:2には行いによっては出来ませんとあります。
(アブラハム契約のしるしである割礼、十字架による新しい契約のしるしである洗礼)
そうすると6:3~5が信じただけでは不足していて実際に水に沈める行いが救いの条件を指しているならばパウロは矛盾を語っていることになってしまいますので
冒頭の東京キリストの教会の解釈は間違いだと私は思います。