そもそも洗礼(バプテスマ)とは何か その6

使徒2:38の続きです

まず文脈ですが イエス様のが復活されて→昇天されます→ペンテコステ聖霊降臨が起こり→使徒達が異言を語り、そしてペテロが第一回目のメッセージを行った

その内容の一節となります。

まず、:5~あるようにこの場にいたのは巡礼に訪れた人たち

律法に従って年3回の祭り、春の過ぎ越し祭、ペンテコステ(五旬祭)、秋の仮庵の祭

エルサレムを訪れていた時なので、

ユダヤ人のペテロがユダヤ人にメッセージを行った場面になります。

内容はヨエル書の引用によって語り、

新しい契約と言われる福音(キリストが私たちの罪の為に死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと)が初めて語られて

最初にユダヤ人が救われました。

ペテロはイエス様から(マタイ17:13-20)教会の鍵を授けられましたが

その最初に、ユダヤ人の鍵を開けました

この後、ユダヤ人と異邦人の混血、サマリヤ人

そして、我々 異邦人(これで人類すべて)の鍵へとルカは書き進めて行くわけですが

全ての場面にペテロ・福音・証としての聖霊が登場します。

聖書を解釈していく上で、そのまま現代の自分に適用すべき聖句か

吟味する必要がありますが、このペテロの第一回目のメッセージは

モーセの律法下におかれたユダヤ人の為と受け取るのが

字義通りの解釈と思います。

水の洗礼を救いの条件とする教会はこの箇所がよく引用されるそうですが

疑問が残ります、、、

ユダヤ人向けのメッセージをどうして異邦人の我々がなんにでも適用可能な

普遍的真理のようにこの聖句を適用させるのか?

なぜ使徒10章の異邦人が初めて救われる場面は適用しないのか?

異邦人がヨエル書の引用から理解可能なのか?

そもそも洗礼を救いの条件と思っていないユダヤ人に語られているのに救いの条件とこのメッセージでどうして理解できたのか?

水の洗礼が救いの条件で大切ならば、3章の第二回目のペテロのメッセージで言及しないのはなぜか?

ローマの6:3-5とセットで説明するなら十字架と復活以降に使徒たちも水の洗礼を受けたほうがいいと思うがその記載が使徒言行録にないのはなぜか?

等々、

では、この2:36-42の洗礼(バプテスマ)とはなにを意味しているのか

幾つかあると思われますが、

洗礼者ヨハネの洗礼から同様と考えるとペテロはパリサイ的ユダヤ教からの分離を唱えてイエスリストにつくその名による洗礼を勧めた、分離がポイント説

ギリシャ語的に”罪を赦していただく為に”(新改訳)この為にと翻訳の前置詞

がエイスというギリシャ語で英語の”for"にあたるもので

”罪ゆるされたのだから洗礼を受けなさい”と翻訳すべきという説

:38は聖霊による洗礼で:41が水の洗礼という説

などです。正直分かりませんので無理やりこじつけ解釈するより

聖書解釈の原則から業・行いによる救いは無いことを尊重することのほうが大切かなと思っています。

なぜなら、ルカはちゃんと

モーセの律法の背景のないユダヤ的背景のない

我々、異邦人が福音を聞いて救われた

最初の場面を使徒10章に分かりやすく

書いてくれているからです。感謝感謝。

私個人の意見ですがこの使徒2章のペテロのメッセージはユダヤ人のものと思っています。ユダヤ人のものと言うと反発を受けるかもしれませんが、新約聖書を読まない、イエスキリストを信じないユダヤ人が、神の招きにあずかり救われる時のものだと思っています。マタイ23:39にあるようにイエス様再臨の大切なひとつのことが行われるためのプロセスと思っています。